江戸時代末期、マシュー・ペリーによる黒船来航を期として開国[注 4]すると、海軍養成の目的も兼ねて西洋式の新たな捕鯨法に関心が集まるようになった。難破した漁船からアメリカの捕鯨船に救助された中浜万次郎は、1863年に幕府の命令によってアメリカ式捕鯨法を試験的に試みている。小笠原諸島に住み着いた異国人からボンブランス捕鯨銃を買い上げ、小笠原近海で西洋式捕鯨を行った[5]。アメリカ式捕鯨とは、洋式帆船を母船として、搭載したボートから捕鯨銃を使って鯨を捕獲する方式である。この他にも福岡藩・長州藩・仙台藩などの地域においてアメリカ式捕鯨法が行われたが、いずれも知識や道具の不足によって失敗している。
明治時代に入ると、従来の網取法とアメリカ式捕鯨において用いる捕鯨銃を組み合わせた漁法が行われるようになった。この際に用いられた捕鯨銃は1840年代にアメリカで開発されたボムランス銃 (Bomb Lance Gun、ボンブランスとも) と呼ばれる物で、銛に爆薬が仕込まれており、手持ち式または甲板に固定して用いられた。金華山漁業株式会社などが行ったといわれる。網取法との併用は明治時代末まで続いた。捕鯨銃は改良されながら太地のゴンドウクジラ捕鯨などで1950年代まで使用されている。ボムランス式捕鯨銃南氷洋捕鯨を描いた3円切手(1949年発行)
江戸時代から用いられていた網取法だったが、捕獲できるのは年間10数頭が限度だった。一方、朝鮮半島東岸において操業していたウラジオストクを基地とするロシア太平洋捕鯨会社は、同じ頭数を捕鯨砲を搭載した動力式捕鯨船で3-4日のうちに捕鯨するため、長崎港や下関港に陸揚げされる鯨肉の量に西日本の捕鯨業者は驚愕していた[6]。折しも1878年(明治11年)12月24日には、太地で気の荒い子連れのセミクジラを捕えようとして悪天候で全ての捕鯨船が沈没し100名以上の死者を出す事件(大背美流れ)が発生した[7]。さらに、漁港周辺の漁場では資源が不足するようになったため、日本各地でノルウェー式捕鯨法による遠中距離の漁場における捕鯨が試みられるようになる。日本近海におけるロシア、アメリカ、イギリス等の外国捕鯨船による捕鯨の活発化を懸念した明治政府も、1897年(明治30年)4月2日に遠洋漁業奨励法を公布、1898年4月1日施行し国内捕鯨の近代化を後押ししている。
1898年(明治31年)秋、長崎に住むフレデリック・リンガーが共同出資した捕鯨船オルガが出漁し、翌1899年(明治32年)春までに73頭を捕獲した[8]。同年7月には、山口県で山田桃作と福沢諭吉の門弟の岡十郎が日本遠洋漁業を創業した。岡は創業に先立ち、ロシア太平洋捕鯨との契約が切れて長崎に住んでいたノルウェー人砲手ピーターソンに接近し、創業後は彼を雇い入れると共にピーターソンの指導で初の国産鋼製捕鯨船の建造に着手した[9]。さらに岡は、ノルウェー各地を視察して捕鯨砲などの機械を購入し、アゾレス諸島やアメリカ東海岸の捕鯨業を視察して帰国した[8]。捕鯨船である第一長周丸は、1900年(明治33年)2月から蔚山港と釜山港を基地に15頭を捕獲したが、1901年(明治34年)2月に第一長周丸や輸送船が相次いで座礁し、4月には日本遠洋漁業の下関出張所が全焼。ついには12月に第一長周丸が沈没した[10]。しかし、岡はオルガを傭船したほか新たな捕鯨船を導入して事業を継続し、89頭を捕獲してわずか1年で損失を補填するのみならず、配当金まで出して会社を復活させた[11]。1903年(明治36年)には、傭船が終わったオルガを長崎捕鯨組合が傭船して捕鯨に参入し、1904年(明治37年)に長崎捕鯨合資会社として法人化された[12]。同年、日露戦争が勃発すると、岡は日本遠洋漁業を東洋漁業に改称すると共に拿捕されたロシアの捕鯨船を払い下げで入手し[11]、日韓捕鯨を合併するなど規模を拡大[13]。