日本の捕鯨
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岡は創業に先立ち、ロシア太平洋捕鯨との契約が切れて長崎に住んでいたノルウェー人砲手ピーターソンに接近し、創業後は彼を雇い入れると共にピーターソンの指導で初の国産鋼製捕鯨船の建造に着手した[9]。さらに岡は、ノルウェー各地を視察して捕鯨砲などの機械を購入し、アゾレス諸島やアメリカ東海岸の捕鯨業を視察して帰国した[8]。捕鯨船である第一長周丸は、1900年(明治33年)2月から蔚山港釜山港を基地に15頭を捕獲したが、1901年(明治34年)2月に第一長周丸や輸送船が相次いで座礁し、4月には日本遠洋漁業の下関出張所が全焼。ついには12月に第一長周丸が沈没した[10]。しかし、岡はオルガを傭船したほか新たな捕鯨船を導入して事業を継続し、89頭を捕獲してわずか1年で損失を補填するのみならず、配当金まで出して会社を復活させた[11]1903年(明治36年)には、傭船が終わったオルガを長崎捕鯨組合が傭船して捕鯨に参入し、1904年(明治37年)に長崎捕鯨合資会社として法人化された[12]。同年、日露戦争が勃発すると、岡は日本遠洋漁業を東洋漁業に改称すると共に拿捕されたロシアの捕鯨船を払い下げで入手し[11]、日韓捕鯨を合併するなど規模を拡大[13]1905年(明治38年)から1906年(明治39年)には2社とも太平洋沿岸に進出した[14]

2社の成功に影響され、1908年(明治41年)までに12の捕鯨会社が相次いで設立され28隻の捕鯨船が創業した[15]。他の漁業会社も捕鯨に参入し、鮎川のように、従来は捕鯨が行われていなかった東北や北海道にも捕鯨会社が進出した。ノルウェー式捕鯨の導入にあたっては捕鯨用具の購入はもとより、砲手もノルウェー人を雇い入れていた。乗組員には旧鯨組の漁師が多く含まれ、彼らの中から日本人の砲手も育成されていった。北九州などでは「山見」などの鯨組時代の組織がそのまま捕鯨会社に活用され、解体技術にも旧来の方式が引き継がれていた。

28隻の捕鯨船が日本近海で操業したが、鯨の成長が遅いこともあって資源の枯渇が早く[注 5]、1908年11月、岡は大日本水産会会長の牧朴真と合名で「ノルウェー式捕鯨合同に関する意見」を発表し、鯨類保護のための企業合同を提唱した[15]1909年(明治42年)3月、東洋漁業と長崎捕鯨、大日本捕鯨、帝国水産の大手四社が合併し、17隻の捕鯨船を擁する東洋捕鯨が設立された[16]。同年、政府も過当競争防止ために鯨漁取締規則(農商務省省令)を公布し、全国の捕鯨船を30隻以下に制限した。捕獲対象はナガスクジラとマッコウクジラ、イワシクジラが中心となり、資源の減少したセミクジラやザトウクジラに替わって捕獲された。

大正に入っても捕鯨業者の合同は続き、1916年(大正5年)時点で東洋捕鯨のほかに残った捕鯨業者は、土佐捕鯨など高知県の3社と、マッコウクジラ専門の2社だけだった[16]

昭和期になると母船式遠距離捕鯨が開始され、1934年(昭和9年)日本捕鯨(後の日本水産、現在のニッスイ)がノルウェーの捕鯨母船アンタークチック(ノルウェー語版)を購入し図南丸と改名、初めて南極海でのシロナガスクジラ捕鯨を行った[17]1936年(昭和11年)には国産捕鯨母船日新丸を建造した林兼商店(後の大洋捕鯨、現在のマルハニチロ[18]1938年(昭和13年)に極洋捕鯨(現在の極洋)も参入し[19]1941年(昭和16年)まで3社6船団が南氷洋での捕鯨を行った。南極海での母船式捕鯨は、輸出用の鯨油生産が主目的で、資源の乏しい日本にとっては外貨獲得源として重視された[注 6]。既存の沿岸漁業との競合防止[注 7]のため製品の持ち帰りが制限されており、日本では冷凍輸送が未発達であったこともあって鯨肉の利用は極めて限定的だった。また、鯨油タンクや船団への補給用燃料タンクを持つ捕鯨母船は、タンカーとしての運用が可能なため、軍事上の観点からも政府の支援が行われた[20]1946年12月2日、国際捕鯨取締条約が採択された

第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争)の際には捕鯨船の多くが海軍に徴用された。特に捕鯨母船は、タンカーや運送船として徴用されて6隻総てが失われた[21]。かくて母船式捕鯨は一旦中断したものの、終戦直後の食料不足に対する捕鯨の期待は大きく、1945年(昭和20年)には大洋捕鯨が元海軍の第一号型輸送艦を用いた小笠原諸島付近での捕鯨を計画し、1946年(昭和21年)3月に出漁した[22]1946年(昭和21年)には大洋捕鯨が第一日新丸で、日本水産が橋立丸で南氷洋捕鯨を再開[23]したほか、1952年(昭和27年)には極洋捕鯨も北洋捕鯨で母船方式の捕鯨を再開した[24]。沿岸での捕鯨も再建され、食肉供給源および鯨油輸出による外貨獲得源として重要産業となった。

1950年代になると、コーン油オリーブ油ヤシ油ヒマワリ油などの植物性油脂や牛脂などの動物性油脂との競合に鯨油は立ち行かなくなり、欧州各国の捕鯨事業の縮小や撤退が相次いだ[25]。これに対し、鯨肉の需要があった[26][27][注 8]日本は、捕鯨母船の新造に加えて売却された各国の捕鯨船を船団ごと購入することで急速に拡充し、1957年(昭和32年)には戦前と同じ6船団に[28]1960年(昭和35年)には南氷洋捕鯨の最優秀船だったバリーナ(ノルウェー語版)を極洋捕鯨が購入して最大7船団に達し[29]1959年(昭和34年)には捕獲頭数で一貫して世界1位だったノルウェーを追い抜き世界最大の捕鯨国となった[28]


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