日本の捕鯨
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この他には1591年土佐国長宗我部元親豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする常習的な捕鯨が開始されていたと見られる[3]

戦国時代末期にはいると、捕鯨用のが利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾熊野水軍を始めとする各地の水軍海賊出身者たちであった。紀州熊野太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年(慶長11年)に、泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。この後、1618年(元和4年)忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸安房沖、遠州灘土佐湾相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている。

三浦浄心(1565-1644)が寛永後期に著したとされる『見聞集』によると、浄心が若い頃、尾張伊勢では鯨を突いていたが、関東では突くことはなかった。しかし文禄期(1592?1596年)に尾張で鯨突きの名人といわれていた間瀬助兵衛が相模三浦に来て、鯨の突き取り漁が三浦半島に伝わると急速に普及し、当初関東では年に100-200匹も突いていたが、4半世紀ほどで(或いはもう少し経つと)年に4-5匹しか取れなくなった、という[4]

1677年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている。
網取り式捕鯨時代紀州太地浦鯨大漁之図。捕鯨技術、太地(1857年)

1677年には、同じく太地浦の和田金右衛門頼照の次男、和田角右衛門頼治(後の太地角右衛門頼治)が、それまで捕獲困難だったザトウクジラを対象として苧麻(カラムシ)製の鯨網を考案、銛と併用する網掛け突き取り捕鯨法を開発した[注 2]。さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。「抵抗が激しく危険な親子鯨は捕らず、組織捕鯨は地域住民を含め莫大な経費のかかる産業であったため不漁のときは切迫し捕獲することもあった。「漁師達は非常に後悔した」という記述も残っており、道徳的な意味でも親子鯨の捕獲は避けられていた。もっとも、子鯨を死なない程度に傷つけることで親鯨を足止めし、まとめて捕獲する方法を「定法」として積極的に行っていたとの記録もある。」という解説もあるが、1791年五代目太地角右衛門頼徳の記録では「何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、・・・もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候」とあり、また太地鯨唄にも「掛けたや角右衛門様組よ、親も取り添え子も添えて」とあり、鯨の母性本能を利用した捕鯨を行っていた。当初は遊泳速度の遅いセミクジラコククジラなどを穫っていたが、後にはマッコウクジラやザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では「角右衛門組」鯨方の太地浦、紀州藩営鯨方の古座浦、新宮領主水野氏鯨方の三輪崎浦を中心として、捕鯨事業が繁栄することになった。

土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門義平によって1624年には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その嫡子、多田吉左衛門清平が紀州太地浦へと赴き、1683年に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。この時、吉左衛門も鯨を仮死状態にする土佐の捕鯨技術を供与したことにより、より完成度の高い技術となり、太地浦では同年暮れより翌春までの数ヶ月間で96頭の鯨を捕獲した。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易なコククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる。『古式捕鯨蒔絵』、太地
江戸時代の捕鯨産業
鯨の多様な用途
江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。
1670年寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると[注 3]、鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨肉調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は(こうがい)やなどの手工芸品に、毛は綱に、皮はに、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香として香料に用いられた。
組織捕鯨と産業
江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英シーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる。
捕鯨を生業としない地域の紛争
鯨組などによって組織捕鯨が産業化されたため流通、用途、消費形態などが確立されたことから以前より一層、鯨の価値が高まった。島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本において捕鯨を行っていない海浜地区でも湾や浦に迷い込んだ鯨を追い込み漁による捕獲や、寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生するため、鯨がもたらす多大な恩恵から地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争になった。これを危惧した江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを鯨定の取り決めにより行った。
砲殺式捕鯨時代

江戸時代末期、マシュー・ペリーによる黒船来航を期として開国[注 4]すると、海軍養成の目的も兼ねて西洋式の新たな捕鯨法に関心が集まるようになった。難破した漁船からアメリカの捕鯨船に救助された中浜万次郎は、1863年に幕府の命令によってアメリカ式捕鯨法を試験的に試みている。小笠原諸島に住み着いた異国人からボンブランス捕鯨銃を買い上げ、小笠原近海で西洋式捕鯨を行った[5]。アメリカ式捕鯨とは、洋式帆船を母船として、搭載したボートから捕鯨銃を使って鯨を捕獲する方式である。この他にも福岡藩・長州藩・仙台藩などの地域においてアメリカ式捕鯨法が行われたが、いずれも知識や道具の不足によって失敗している。

明治時代に入ると、従来の網取法とアメリカ式捕鯨において用いる捕鯨銃を組み合わせた漁法が行われるようになった。この際に用いられた捕鯨銃は1840年代にアメリカで開発されたボムランス銃 (Bomb Lance Gun、ボンブランスとも) と呼ばれる物で、銛に爆薬が仕込まれており、手持ち式または甲板に固定して用いられた。金華山漁業株式会社などが行ったといわれる。網取法との併用は明治時代末まで続いた。捕鯨銃は改良されながら太地のゴンドウクジラ捕鯨などで1950年代まで使用されている。ボムランス式捕鯨銃南氷洋捕鯨を描いた3円切手(1949年発行)

江戸時代から用いられていた網取法だったが、捕獲できるのは年間10数頭が限度だった。一方、朝鮮半島東岸において操業していたウラジオストクを基地とするロシア太平洋捕鯨会社は、同じ頭数を捕鯨砲を搭載した動力式捕鯨船で3-4日のうちに捕鯨するため、長崎港下関港に陸揚げされる鯨肉の量に西日本の捕鯨業者は驚愕していた[6]。折しも1878年(明治11年)12月24日には、太地で気の荒い子連れのセミクジラを捕えようとして悪天候で全ての捕鯨船が沈没し100名以上の死者を出す事件(大背美流れ)が発生した[7]。さらに、漁港周辺の漁場では資源が不足するようになったため、日本各地でノルウェー式捕鯨法による遠中距離の漁場における捕鯨が試みられるようになる。日本近海におけるロシア、アメリカ、イギリス等の外国捕鯨船による捕鯨の活発化を懸念した明治政府も、1897年(明治30年)4月2日に遠洋漁業奨励法を公布、1898年4月1日施行し国内捕鯨の近代化を後押ししている。

1898年(明治31年)秋、長崎に住むフレデリック・リンガーが共同出資した捕鯨船オルガが出漁し、翌1899年(明治32年)春までに73頭を捕獲した[8]。同年7月には、山口県山田桃作福沢諭吉の門弟の岡十郎が日本遠洋漁業を創業した。岡は創業に先立ち、ロシア太平洋捕鯨との契約が切れて長崎に住んでいたノルウェー人砲手ピーターソンに接近し、創業後は彼を雇い入れると共にピーターソンの指導で初の国産鋼製捕鯨船の建造に着手した[9]


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