日本の女性史(にほんのじょせいし)では、日本における社会、政治、文化、宗教などにおいて女性が果たした役割と地位の変遷などについて記述する。女性史とは、歴史上の女性に焦点を当て、女性が社会の中でどのように位置付けられていたかを考える歴史学である[1]。近代に成立した歴史学は男性のみに許される学問であった。また過去に権力者が編纂した歴史書の多くも男性によって記されてきた。その影響下で語られる歴史は女性についての記述が非常に少なく、またわずかに記される女性も男性目線で描かれていた。女性史の研究は過去の歴史学で語られなかった部分を検証し、歴史学をより実りあるものにすることを目的にしている[2]。またさらに踏み込んで社会的性差(=女性差別)が形成された歴史を明らかにするのがジェンダー史(英語版)である。本記事では女性史の書籍で記載される歴史観を中心に記載する。 日本の女性史研究の最初期においては戦前の高群逸枝や戦後の井上清が挙げられる[3]。1970年代にマルクス主義歴史学に基づく女性史研究が在野の女性研究者たちによって行われて成果を挙げる。しかしアカデミックな場で発展した欧米の女性史研究とは環境が異なっていた。日本でもアカデミズムの中で女性史が研究されるようになるのは1980年代である。2000年代になるとジェンダー史 弥生時代後期から古墳時代前期(1世紀後半から4世紀)までは、『魏志倭人伝』に記されるように男女が共に政治に参加し、また、墳墓の発掘調査から男女首長が併存する社会であったと考えられる。そこから、親族関係も双系制が主体であったとする説もある。しかし、5世紀の倭の五王の頃から女性首長の数は減少してゆく[5]。また、弥生時代からすでに男女が異なる仕事を分担する、自然的な性別分業があったと考えられる[6][5]。 縄文時代では、成人男女数名と子供[注釈 1]からなる5人から10人の集団が一つの竪穴建物で居住していた。この時代は幼児の死亡率が高く、成人(15歳)できた人々でも平均寿命は31歳程度であったと考えられている。また成人女性の死亡ピークは20台前半であることから出産リスクも極めて高かったと考えられる。こうした中で集団を維持するためには、女性一人が平均して8.4回出産をしていたとされ、女性の出産や授乳などの育児のもつ意味が極めて大きかったと考えられる[7]。土偶が女性像であることも多産や出産の無事への切実な祈りであったとされる[8]。 日本の原始社会において母系制の存否は大きなテーマである。世界的には農耕普及に関連し母系制社会が出現したとされる。世界の250の民族を研究したマードックは「妻方居住婚の民族では母系制が多い」とし、高群逸枝は日本の古代に妻問婚や妻方居住婚があったことから母系制が存在していたとした[9]。これに対し都出比呂志は弥生時代では夫方居住婚ないし選択居住婚であったとした[注釈 2]。また春成秀爾は縄文時代前半は妻方居住婚であったが後半期から弥生時代にかけて選択居住婚から夫方居住婚に移行[注釈 3]したうえで、妻方居住婚では母系制、父方居住婚では父系制である蓋然性が高いが、選択居住婚では必ずしも双系制ではないとした。しかし現段階では、原始社会での親族体系は確定的でなく、いずれの可能性も否定できない[11]。 狩猟社会においては、女性は食料の貯蔵や土器生産、男性は狩猟および石器生産などの性別分業があったと考えられる[7]。農耕社会においては水田耕作は男女共同でおこなっていたと考えられる[注釈 4]が、土器や織物の生産は引き続き女性が担っていたと考えられる[12][13]。弥生時代の絵画銅鐸では女性(△頭)と男性(〇頭)が画き分けられており、性別分業があったことが分かる[14]。また集落が大きくなると社会的分業も発生したが、祭祀を行うのは女性(巫女)に限られ、地位も非常に高かったと考えられている[15]。古墳の人物埴輪には女性の姿が見られ、一般に巫女と説明されることが多いが、単に食膳を奉仕する女性とする説もある[16][13]。5世紀ごろの地方豪族は部民制により土器や織物、酒など貢納品を生産するようになるが、これらの生産もやはり女性の仕事であったと考えられる[17]。 『魏志倭人伝』に記される邪馬台国では「会同(政治集会)には男女共に参加し席次も区別されなかった」とあり、大陸に比べると男女差が少なかったと考えられる[18]。また女王卑弥呼とそれを補佐する弟のように、古墳の発掘調査でも首長は男女が対であることが少なくない。
女性史の研究
先史時代
親族体系土偶 縄文のビーナス
性別分業伝香川県出土銅鐸 6つに分けられた絵のうち、左下が杵を突く女性
政治と戦争