日本の国旗
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海事史学者の石井謙治は「斉彬提唱説」を取り上げつつも、日の丸が江戸幕府の御用船旗に用いられた事実から、日の丸が日本船の船印に提唱されたのは自然のこととしている[16]
幕閣・徳川斉昭提唱説
日の丸を掲げる幕府海軍鳳凰丸。なお、白地中黒の帆は幕府船の標識。

海事学者の安達裕之は、上記の説を俗説に過ぎないとしている。『水戸藩史料』等の幕閣や斉昭の書簡・仕様帳といった当時の史料から、安達が考察した日の丸制定の経緯は次のようになる。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の黒船来航は、これまで低調であった大船建造の禁廃止による西洋船建造を推進させた。この際に問題とされたのが外国船との識別方法で、同年9月初旬(同年8月)に従前より「白地中黒」(白地に黒の横一文字)を幕府船の船印にした浦賀奉行が、蒼隼丸・下田丸の代船(後の鳳凰丸)へ白地中黒とは別に日の丸を掲げることを起工前に検討しており[17]、日の丸を日本船の船印にすることを企図している。

1853年10月6日(嘉永6年9月4日)に老中が浦賀奉行作成の鳳凰丸の図面を評定所一座・勘定奉行大目付目付に渡し、惣船印に日の丸を採用することを諮問している。これに対して評定所一座や大目付目付は、白地中黒を惣船印、日の丸は幕府船の船印にすることを、また勘定奉行は惣船印に白地中黒の帆印、幕府船に白黒の吹貫を提案した。彼らが日の丸を不可とした理由は、御城米船や銀・銅を運搬する幕府御用船に日の丸を200年近く伝統的に用いたこと、日の丸の紅が退色し易いことを挙げている。

その後、外交問題処理が優先され評議は中断したが、鳳凰丸が1854年6月6日(嘉永7年5月10日)に竣工し、幕府は惣船印の決定を迫られた。幕府は、勘定奉行・勘定吟味役・目付からなる大船製造掛に昨年9月の評議案を審議させ、惣船印を白黒の吹貫、帆印を白地中黒、幕府船を日の丸幟との答申を得た。1854年6月29日(嘉永7年6月5日)に老中首座阿部正弘が幕府海防参与徳川斉昭へこの答申を諮問した所、斉昭は白地中黒は徳川氏の先祖である新田氏の印で、日の丸は国名である日本を示す印であり、逆にするべきと提言した。その後1か月余りの間に斉昭と幕府の間で折衝が行われた結果、斉昭の意見が容れられ、1854年8月2日(嘉永7年7月9日)に白地日の丸幟を「日本惣船印」とすることが通達された[18]。竣工したばかりの「鳳凰丸」には日の丸の旗が掲げられ、白地中黒の帆が装備された。

また、石井行夫は安達説を踏襲しつつ、「鳳凰丸」が「昇平丸」よりも早く日の丸を掲げるため公試の一部を省略したこと、浦賀奉行から提出された日の丸の試案が存在したことを取り上げている[19]
国旗としての汎用化咸臨丸(1861年頃)

1858年(安政5年)、幕府目付岩瀬忠震下田奉行井上清直は、日章旗を掲げて神奈川沖に停泊中のポーハタン号に渡り、孝明天皇の勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印・署名した。

1859年(安政6年)、幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初である。

1860年万延元年)、日米修好通商条約批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団アメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由して首都ワシントンD.C.に到着し、当時のアメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見して批准 書の交換 を終えた。その後、使節団一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイパレードする模様が伝えられている[20]。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。

こうして、「日本国惣船印」は国旗とほぼ同様な使い方をされることになり、次第に「国印」(1863年(文久3年))と呼び方が変わっていった[21]
賊軍の旗日の丸を掲げる幕府陸軍の部隊(1864年)

幕府海軍に続き、1862年(文久2年)に創設された幕府陸軍も軍旗に日の丸を採用したことが、2年後の第二次長州征伐頃の幕府陸軍を描いた1864年10月8日付の英週刊新聞『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』の挿絵より窺える。以降も幕府陸軍は日の丸を軍旗として使用していた[22]

戊辰戦争においては、鳥羽・伏見の戦いの2日目の慶応4年1月4日に、薩長同盟に基づく薩摩藩長州藩を中心とする軍勢が朝廷から「錦の御旗」を授けられて正式に官軍天皇皇室朝廷の軍)になったのに対し[注 3]、それ以降の旧江戸幕府軍は賊軍朝敵となり、戦局に決定的な影響を与えた。旧幕府方の彰義隊会津藩白虎隊など)、奥羽越列藩同盟の一部などは、自分たちの共通の旗として上述の「御国総標」たる日章旗を掲げて戦った[23]
明治・大正から昭和初期・終戦まで松島での帝国検査中の進展。歌川広重 (3代目)(1876年)武内桂舟画 「東天紅」、1909年

明治維新により国家体制が一新した日本だが、国旗の変更は行われずそのまま使用が継続された。
商船規則

1870年2月27日明治3年1月27日)制定の商船規則(明治3年太政官布告第57号)に「御國旗」として規定され、上述の幕府による「御国総標」を継承して日本船の目印として採用された。規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。この日を記念して国旗協会は国旗制定記念日を制定し、国旗掲揚の日としている。
陸軍御国旗陸軍御国旗の意匠

日本陸軍において、1870年6月13日(明治3年5月15日)制定の陸軍国旗章並諸旗章及兵部省幕提灯ノ印ヲ定ム(明治3年太政官布告第355号)に「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」として旭日旗が定められた。
海軍御国旗

日本海軍については、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の太政官布告「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム」(明治3年太政官布告第651号)において、各種の旗章の一つとして艦尾に掲揚する海軍御国旗として白布紅日章が定められ、幕末から使用されていた日の丸が引き続き使用された。規格は現行と同じく、縦横比は2対3、日章は旗の中心とされていた。また、幕末には「国印」と呼ばれるようになっていた日の丸は、同布告のとおり、国際法にもとづいて「国旗」と呼ばれるようになった[13]
国旗としての使用と法律制定の検討.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}日の丸を抹消した1936年8月25日付夕刊の東亜日報


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