日本のキリスト教史
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^ ネストリウス派キリスト教(中国景教と呼ばれたもの)が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある[注釈 1][7][注釈 2]。ただし、歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い。
^ a b c ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[12]
^ キリスト教に敵対的な領主は領内の十字架を倒し、キリスト教徒を元の教えに強制改宗するように命じたり(1564年十月十四日)[8]、1563年十一月七日頃には修道院とキリシタンの農民たちの家を燃やした[9][10]。1573年にはトードス・オス・サントス教会が焼き払われている[11]。このようにキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していた[12]
^ a b 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[13]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[14]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年である。ポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷の記録が残されているが[15]、具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[16]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上?今世より畜生道有様目前の二相聞候。

ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[17]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[18]
^ 1555年、ポルトガル商人が日本人の奴隷の少女を買い取ってポルトガルに連れ帰ったとイエズス会士が告発を行っている[22]
^ a b c イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[注釈 7]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[23]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[24][25][26]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[27][注釈 4]
^ a b 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがある。宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[21]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注釈 8]
^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [29]のだという。
^ 江戸幕府が豊臣秀吉遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[30][31]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、本人の意志に関係なく性的サービスの提供の強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発だった[32]


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