日吉大社
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日吉社は、崇神天皇7年に日枝の山の山頂から現在の地に移されたという[3]

日吉社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂にある大山咋神が降り立ったという磐座・金大巌(こがねのおおいわ)を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、比叡山地主神である大山咋神を祀るために崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。

西本宮の祭神・大己貴神については、近江大津宮(大津京)遷都の翌年である天智天皇7年(668年)、大津京鎮護のため大和国大神神社の祭神である大物主神を大己貴神として勧請し、新たに西本宮を建てて祀ったという。これは大己貴神の別名である大国主神の和魂が大物主神であると日本神話に書かれているため、両神が同じ神とみなされたためである。以降、元々の神である東本宮・大山咋神よりも、西本宮・大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。

延暦7年(788年)、最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立し、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬する。そして、延暦13年(794年)の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになった。

延暦寺が勢力を増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになる。日吉社は元慶4年(880年)に西本宮の大己貴神が、寿永2年(1183年)に東本宮の大山咋神がそれぞれ正一位の神階に叙せられた[3]。『延喜式神名帳』では名神大社に列格している[3]

こうして日吉社は延暦寺と次第に一体化していき、平安時代中期には八王子山の奥に神宮寺が建てられている。また、日吉社の参道沿いには延暦寺の里坊が立ち並ぶようになっていく。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社の山王信仰も広まって全国に日吉社が勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに与えた影響は大きいとされる[3]

天慶5年(942年)には根本多宝塔が建立される。長暦3年(1039年)8月には後の二十二社中の下八社の一つとされた。

嘉保2年(1095年)10月、延暦寺の大衆と日吉社の神人が初めて日吉社の神輿を担ぎ出して(神輿振り)、小競り合いで誤って僧を殺してしまった美濃守源義綱を流罪にさせようと要求するため、義綱の主である関白藤原師通がいる都に向け強訴を行なった。朝廷はこれを防ごうと源義綱と源頼治を出陣させて防衛にあたらせたが、その際に神輿にが刺さる事件が起きている。延暦寺・日吉社側は死傷者が出てついに強訴を中止して撤退した。しかし、その後延暦寺が藤原師通を呪詛し、承徳3年(1099年)6月に師通が亡くなると、延暦寺はそれを日吉社の神輿の神威であると喧伝したため、朝廷にとっては日吉社の神輿は畏怖の対象ともなっていった。これ以降、延暦寺および日吉社は度々この神輿を使っての神輿振り・強訴を繰り返し行い、平安時代から室町時代にかけての370余年の間に40数回も行われている。『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるなど、絶大な権力を有する天皇ですら制御できない存在となっていた。

正元元年(1259年)に一部の社殿が焼失したが、室町時代には山王神道が益々盛んになり、境内に108社、境外に108社もの摂社・末社が建ち並ぶなど隆盛を誇った。しかし、明応3年(1494年)に徳政一揆によって一部を焼失する。

元亀2年(1571年)、織田信長比叡山焼き討ちにより、日吉社も全て焼かれて灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである[4]。信長の死後、豊臣秀吉徳川家康は山王信仰が篤く、日吉三橋などの建造物がこの時代に構築されている[3]小瀬甫庵の『太閤記』などでは秀吉が申年の1月1日に生まれたため、日吉社の加護を得たとして幼名を「日吉丸」としたとしているが、これは創作と考えられている[5]

延宝9年(1681年)、神仏習合や山王神道(山王一実神道)を改めようとする動きが日吉社から出て延暦寺と争いになるが、貞享元年(1684年)に日吉社は論争に敗れた。そのために翌貞享2年(1685年)に山王神道を守るように延暦寺から厳命され、日吉社は受諾している。

1868年明治元年)、神仏分離令が出ると日吉社は率先して仏教色を一掃し、延暦寺から独立して社名を日吉大社とした。分離令直後の4月1日、日吉大社の社司で、明治政府神祇事務局事務掛を兼ねていた樹下茂国(じゅげしげくに)が、吉田神社京都市)の神官らからなる「神威隊」を伴って、延暦寺に対して日吉大社の引き渡しを要求。拒否されると近在住民らとともに社殿に乱入し、仏像経典などを破壊したり、焼き捨てたりした[6]。これは廃仏毀釈が全国に広がる発端となった[7]

また、本来の祭祀の形に戻すとして、西本宮と東本宮の祭神を入れ替えた。西本宮に大山咋神を祀って主祭神とし、大己貴神(大物主神)を祀ることとなった東本宮は摂社の大神(おおみわ)神社として格下げとなった。

1871年明治4年)、西本宮が官幣大社となる[3]1928年昭和3年)、東本宮も官幣大社となると、再び西本宮と東本宮の祭神を入れ替えて江戸時代までの形に戻している[3]

太平洋戦争後の1948年昭和23年)に神社本庁別表神社に加列されている。

2006年平成18年)6月7日、歴史的風土特別保存地区に指定された[8]

2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観? 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される[9]

日吉大社の例祭時には昔と変わらず延暦寺の僧も参加している。

境内入口北側には元は比叡山の里坊・竹林院だった旧竹林院庭園と、元三大師良源ゆかりの求法寺がある。
祭神

2つの本宮と以下の5つの摂社から成り、日吉七社・山王七社と呼ばれる。
本宮


西本宮:
大己貴神大物主に同じ)

東本宮:大山咋神

5摂社


牛尾宮:大山咋神荒魂 - 大山咋神の荒魂

樹下宮:鴨玉依姫命

三宮宮:鴨玉依姫命荒魂 - 鴨玉依姫命の荒魂

宇佐宮:田心姫神

白山宮:白山姫神

山王信仰詳細は「山王信仰」を参照

かつては境内108社・境外108社といわれていた。以下に示す21社は主なものであり、山王二十一社と総称され、日吉大神と呼ばれる。旧称は江戸時代までの神仏習合時代の名称である。東本宮境内の各社は「大山咋神の家族および生活を導く神々」と説明されている。

社格社名祭神旧称本地所在地
上七社
(山王七社)本宮西本宮大己貴神大宮(大比叡)釈迦如来


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