日中国交正常化
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親米親華派だった岸も「日中貿易促進に関する決議」の提案者[9][10] でもあり、総理就任後も対中政策重視のため[11] に起用した外務大臣藤山愛一郎とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」[12][13][14] や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」[15] として日中貿易を促進したい旨[16] を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる[17]。岸は藤山とともに池田正之輔の訪中の際も打ち合わせを行っていた[18]

そして1958年3月に岸政権の承諾[17] で第四次日中民間貿易協定が締結された。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、両国の国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に対して中華民国とアメリカから反発が出て、予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中華人民共和国側と緊張関係が漂う中で1958年5月2日に「長崎国旗事件」が起きた[注釈 4]。これに中華人民共和国の外相の陳毅が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである[19]。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。この年の夏に周が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、二つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、これに嫌悪感を示した日中間はしばらく膠着状態となった。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中華人民共和国側の「政経不可分の原則」と対立し、1959年に訪中した石橋と周との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。

しかし、民間レベルでの接触は続き、企業や友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は、中華人民共和国内に文化大革命の嵐が吹き荒れた1960年代も続いた。
池田内閣と二つの中国政策

1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸が辞任して、池田勇人が首相に就任した。池田は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた[20]。しかし困難な問題があった。現実には「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方とは断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。

池田は国連中心の外交方針で、中華人民共和国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中華人民共和国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、中華民国の国連における議席を維持したまま中華人民共和国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。しかし両国ともに「一つの中国」を原則としており、西側諸国の多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた[21]

池田は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾島一帯、金門島及び馬祖島)にその地位を限定することで同国の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても中華民国の議席は守られると考えていた。そのためには蒋介石を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のジョン・F・ケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は「中華人民共和国の国連加盟に対するアメリカ国内の抵抗が大きい」とするものであった。この問題はこの時で終わってしまった[注釈 5]

そして1964年1月に、突然フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が中華人民共和国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中華人民共和国との国交正常化をしても中華民国が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に中華民国が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田は、中華人民共和国の国連加盟が実現すれば日本も中華人民共和国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に中華民国は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した[22]
友好貿易とLT貿易

1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中華人民共和国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして松村謙三古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、日本国内では反体制色の強い左翼団体や、政治的立場より収益を優先する企業が中心的な役割を果たしていた。

そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太全日本空輸社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保証や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中華人民共和国側代表廖承志と日本側代表高碕達之助の頭文字からLT貿易と呼ばれている。

しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後中華民国へと亡命希望先を変えて、その後もとの中華人民共和国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中華人民共和国へ強制送還したが、中華民国が反発して両日関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「吉田書簡」を当時の国府総統府秘書長張群に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中華人民共和国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。

さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中華人民共和国の記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。
文化大革命と覚書貿易

1964年秋に池田が病気のため辞任して佐藤栄作が首相に就任した。佐藤内閣は当時、歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争沖縄返還、日米安保延長があり、そして中華人民共和国では中ソ対立や文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。

1966年3月には日本共産党宮本顕治が訪中したが、中国共産党主席毛沢東と路線対立して帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した[注釈 6]。この直後、中華人民共和国では文化大革命が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中華人民共和国の外交活動も停滞した。この混乱は3年後の1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易[注釈 7] が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。
経緯
米中接近

中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1950年代後半頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中華人民共和国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中華人民共和国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。

1971年3月に名古屋市で開催された第31回世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中華人民共和国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にアメリカのヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(当時。後に国務長官)がリチャード・ニクソン大統領の命を受けて北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。

この当時アメリカにとっては中華人民共和国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、中華人民共和国と対立するソ連のみならず、中華人民共和国が支援していた北ベトナムに対しても揺さぶりをかけることで、膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。


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