日ソ国交回復
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—ドムニツキー書簡、[6]

6月3日から、イギリスロンドンにあるソビエト連邦大使館で国交正常化交渉が開始された[7]。日本側の松本俊一全権大使とソ連側のヤコフ・マリク駐イギリス大使による交渉は北方領土問題で難航し、保守合同による自由民主党の発足と対ソ強硬派の活動という日本側の国内事情もあって、交渉は難航[注釈 3][4]。同年12月にソ連は日本を含んだ国際連合への18ヵ国の一括加盟案に拒否権を発動した[8]

1956年(昭和31年)3月20日に交渉決裂に至り、翌日からソ連は北海道北方の海域に漁業制限区域(「ブルガーニン・ライン」)を設け、日本の漁船を締め出したばかりかその拿捕や漁民の連行が相次ぎ、日本の水産業に打撃を与えた[5][7]

しかし、ソ連との国交回復と国際連合加盟を自らの政権の中心課題とする鳩山首相の熱意は強く、モスクワへ渡った河野一郎農林大臣ニコライ・ブルガーニン首相(閣僚会議議長)とのタフネゴシエーションの結果、日ソ漁業条約が結ばれた。また、日ソ漁業交渉の決着は国交正常化への地ならしともなった[5][7]

10月12日に鳩山首相(第3次鳩山一郎内閣)は河野農林大臣などの随行団と共にモスクワを訪問し[注釈 4]ニキータ・フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。鳩山側は「2島返還を受諾した場合、沖縄をアメリカの領土にする」としたジョン・フォスター・ダレス国務長官の発言(「ダレスの恫喝」)や「歯舞、色丹の即時返還」「国後、択捉は日本固有の領土」とする自民党の党議拘束による制約を受けていたが、焦点の北方領土問題はまず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を日本に譲渡するという前提で改めて平和条約の交渉を実施するという合意がなされた[3][5][7]

10月19日モスクワに於て鳩山・ブルガーニン両首相が「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」に署名し、両国での批准を経て12月12日に東京において批准書が交換されて発効した[3][4]
宣言の内容

日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する。

日ソ両国はそれぞれの
自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する。

ソ連は日本の国際連合への加盟を支持する。

ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる。

ソ連は日本国に対して一切の賠償請求権を放棄する。

日ソ両国は1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国・その団体及び国民のそれぞれ他方の国・その団体及び国民に対する全ての請求権を相互に放棄する。

日ソ両国は通商関係の交渉を開始する(同日に日ソ通商航海条約を締結)。

日ソ両国は漁業分野での協力を行う。

日ソ両国は引き続き平和条約の締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島色丹島を引き渡す(譲渡)。

その後の影響
政治

共同宣言の締結によって日本の国際連合加盟への障害が無くなった。1956年(昭和31年)12月18日国際連合総会で、ソ連は他の東ヨーロッパ諸国と共に日本の加盟に賛成し、全会一致による日本の加盟が実現した[8][3]。また、この国際連合加盟により第3次鳩山一郎内閣は総辞職し、石橋内閣石橋湛山首相)に引き継がれた。


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