日ソ中立条約
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迅速な会談の背景には、建川美次駐ソ大使の尽力があった[6]

ソ連側全権はヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員(外務大臣)、日本側全権は建川駐ソ大使と松岡外相が署名した[7]

また、この条約の締結に先立ち、すでに第二次世界大戦の勃発により西部戦線で独伊両国と交戦状態であったイギリスウィンストン・チャーチル首相は、松岡に「ドイツは早晩、ソ連に侵攻すること」を日英開戦直前に警告している。
条約への期待

条約締結時、『東京日日新聞』4月16日付記事「日ソ中立條約と我が外交進路」[8]では、次のような期待と評価が寄せられた。
米ソ二正面作戦の回避

ソ連が枢軸陣営の傍系構成員となったことで、日独伊三国同盟第2条と同じく日本の「大東亜に於ける新秩序」(権益)を尊重し、南下政策の進路は極東ではなく中央アジア?近東に向く

日中戦争におけるソ連の中立

日独伊の連絡ルートの確保

上記『東京日日新聞』と同様に、小泉孝吉もまた、次のように分析した。
ソ連は米ソの誘いにもかかわらず、1939年(昭和14年)夏以来、枢軸国側に接近している[9]

ソ連も、ドイツほどではないが第一次世界大戦で広大な領土を喪失しており、日独伊の「持たざる国」と利害が一致する[9]

中国の反発「中ソ不可侵条約」、「国共内戦」、および「日中戦争」も参照

本条約締結の2年前、1937年(昭和12年)8月にソ支不可侵条約(当時:ソ支中立条約とも[注釈 1])が結ばれていた。

本条約の締結に際し、蒋介石政権(重慶国民政府)は、ソ支不可侵条約と本条約が相反する可能性があるため、異議を申し立てた[10]。具体的にはソ連に日ソ中立条約の第2条を支那事変(当時、日中戦争)に適用しないよう要請した[11]。ソ連側の新聞では、蒋介石や宋子文[注釈 2]が直接モスクワで交渉すべしと報じた[10]

締結当時、小泉孝吉は蒋政権は、今までのようにソ連を味方視したり、ソ連が日本の敵と見做すことは出来なくなったとし、同政権がソ連の援助を受けるとは考えられないと分析した[12]。しかし、ソ連は中国共産党及び重慶国民政府への支援を継続し、特に独ソ戦以降は支援を強化した[13]
条約破棄
ソ連と米英の関係強化

本条約締結からわずか2か月後の1941年(昭和16年)6月に発生した独ソ戦(ソ連側呼称:大祖国戦争)は、ソ連の対米英関係を好転させた[14]。ソ連はそれでもなお、本中立条約を基に、対日参戦については慎重だった[14]

同年12月には、ついに日本と英米が開戦。フランクリン・ルーズベルト米大統領は共同宣言案文から参戦に関する条項を削除する配慮を見せ、その結果1942年(昭和17年)1月1日連合国共同宣言にソ連が署名する[15]。ドイツは日本に、米国はソ連に、それぞれ日ソ開戦を期待していた[15]

1942年(昭和17年)8月、ヨシフ・スターリンは駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対し、初めて対日参戦の意思を表明する[16]。1943年春にはテヘラン会談でも、意思表明した[17]。ただし、これは強い意志ではなく、1944年9月にはハリマンに対し「米英による、ソ連無しでの日本降伏に同意する」旨を伝えているが、米国は、なおもソ連参戦を強く望んだ[17]
ヤルタ会談と極東密約

ソ連側の条約破棄の背景には、ヤルタ会談にて「秘密裏に対日宣戦が約束されていたこと」がある。さらに、ポツダム会談で、ソ連は「ソ日中立条約の有効期間中である」としてアメリカと他の連合国がソ連政府に「対日参戦の要請文書を提示すること」を要求した[18]

これに対して、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはソ連首相スターリンに送った書簡の中で、連合国が署名したモスクワ宣言1943年)や「国連憲章103条・106条」などを根拠に、「ソ連の参戦は平和と安全を維持する目的で国際社会に代わって共同行動をとるために他の大国と協力するものであり、国連憲章103条に従えば憲章の義務が国際法と抵触する場合には憲章の義務が優先する」という見解を示した[18][19]

この回答はソ連の参戦を望まなかったトルーマンやジェームズ・F・バーンズ国務長官が、国務省の法律専門家であるジェームズ・コーヘンから受けた助言をもとに提示したものであり、法的な根拠には欠けていた[注釈 3]

この後、5月8日ドイツが降伏したことで、ヤルタ会談における極東密約に基づき、ソ連は7月8日又は8月8日までに対日参戦することとなった。
4月5日:ソ連による「廃棄」通達

ドイツ[注釈 4]及び日本[注釈 5]の敗色が濃厚になりつつある1945年(昭和20年)4月5日モロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使に、延長せず中立条約を「廃棄」することを通告した[17]。日ソ中立条約廃棄に関するソ連覚書(1945年4月5日)

日「ソ」中立条約ハ独「ソ」戦争及日本ノ対米英戦争勃発前タル一九四一年四月十三日調印セラレタルモノナルカ爾来事態ハ根本的ニ変化シ日本ハ其ノ同盟国タル独逸ノ対「ソ」戦争遂行ヲ援助シ旦「ソ」連ノ同盟国タル米英卜交戦中ナリ斯ル状態二於テハ「ソ」日中立条約ハ其ノ意義ヲ喪失シ其ノ存続ハ不可能トナレリ
依テ同条約第三条ノ規定二基キ「ソ」連政府ハ二日「ソ」中立条約ハ明年四月期限満了茲後延長セサル意向ナル旨宣言スルモノナリ

(現代仮名遣い、句読点を補ったもの)
日ソ中立条約は、独ソ戦争及び日本の対米英戦争勃発前たる1941年4月13日調印せられたるものなるが、爾来、事態は根本的に変化し、日本はその同盟国たるドイツの対ソ戦争遂行を援助し、かつソ連の同盟国たる米英と交戦中なり。かかる状態においては、ソ日中立条約は、その意義を喪失し、その存続は不可能となれり。
よって同条約第3条の規定に基づき、ソ連政府は、2日、ソ日中立条約は明年4月期限満了、茲後、延長せざる意向なる旨、宣言するものなり。 ? 北方領土問題に関する日露共同作成資料集(1992年版)[20]

すなわち、ソ連側が挙げた条約廃棄の理由は次の二点であった[17]
ドイツの独ソ戦遂行を支援した

ソ連の同盟国である、米英と交戦中

モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べたが、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年間は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は期限切れとなる1946年(昭和21年)4月25日までは有効であることを認めている[21][22]


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