旅順攻囲戦
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もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、満洲での戦争継続は絶望的になると考えられた。5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った[注 7]。日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍はこの頃陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。

このような経緯に加え攻城の準備は複雑なため、第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった[注 8]。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて主戦場と目される満洲南部へ北進する第2軍から2個師団(第1師団第11師団)が抽出され当てられた。

6月20日に満洲軍(総司令部)が設置され、第3軍もその下に入った。第3軍の使命は、速やかに要塞を陥落させ、兵力を保全したままその後に第1・2軍に合流することだった。
旅順要塞の構造旅順に残る清時代の沿岸砲台

旅順要塞の構造は、要塞防衛線(第一防衛線、第二防衛線)、および前進陣地から構成される。

旅順は元々は清国の軍港で、ロシアが手中に収めた時点である程度の諸設備を持っていた。しかし防御施設が旧式で地形も不利な点を持つことを認識し強化に着手した。1901年より開始されたこの工事は、当初は下述する203高地や大孤山(標高約180 m)も含めた十分に広い範囲に要塞防御線を設置し守備兵2万5千を常駐させる計画だった。しかし予算不足で防御線の規模は縮小され、常駐の守備兵も1万3千に変更された。この要塞防衛線は港湾部に近すぎ、要塞を包囲した敵軍の重砲は、防衛線内の砲台から狙われない安全な位置より港湾部を射程内に収めることができた。また地形上、敵軍が防衛線外の大孤山や203高地、南山坡山(通称海鼠山、標高約200m、203高地の北)などを占領した場合は、港湾部の一部もしくは全域の弾着観測を許した。そのため開戦後にはそれら防衛線外も前進陣地や前哨陣地を設け防御に努めたが本質的に完全ではなかった。また完成は1909年の予定だったので、1904年の日露開戦により未完成のまま(完工度は約40パーセント)戦争に突入することになった[2]。これら前哨陣地は第7師団長ロマン・コンドラチェンコ少将の精力的な強化工事が施された[3]

要塞の配置、規模は

東正面
白銀山、東鶏冠山(北・南)、盤龍山(北、東、西)、松樹山各堡塁を中核とし、望台(標高185m)、永久砲台、旧囲壁(日清戦争時の要塞の構造物)、臨時築城陣地などで連接

北正面
椅子山、大案子山、龍眼北方、水師営南方各堡塁を中核とし、砲台、野戦築城陣地などで連接

西正面
西太陽溝などの各堡塁を中核とする。また203高地、化頭溝山、大頂子山などに野戦陣地を新設

装備火砲
要塞砲350門、野砲67門、海軍砲186門、捕獲砲43門の合計646門。これを海上正面に124門、陸上正面に514門、予備8門に分配。

機関砲
海上側に62門、陸上側に47門、予備10門の合計119門。

となっている[4]

防衛線外の前進陣地は、西方に203高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小孤山諸陣地を整備したが、未完成だった。

要塞の主防御線はコンクリート(当時は仏語のベトンと呼ばれていた)で周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなりあらゆる方角からの攻撃に備え、第二防衛線内の最も高台である望台には砲台を造り支援砲撃を行った。さらに突破された場合に備えて堡塁塹壕砲台を連ねた小規模な副砲が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた[3]

ロシア軍では、この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令としてアナトーリイ・ステッセリ中将、旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将が就任した。

日露戦争の開戦時の旅順要塞には、東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)・東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)・東シベリア第5狙撃兵連隊・要塞砲兵隊・要塞工兵隊など総勢4万4千名の兵力、436門(海岸砲は除く)の火砲があった[5]
経過
前哨戦

日本海軍は、独力で旅順艦隊を無力化することを断念し、1904年7月12日に伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出した。6月31日、大本営からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。

しかし陸軍は、旅順要塞を攻略する方針を固めることが遅れたため、情報収集が準備不足だった。ロシア軍の強化した要塞設備に関する事前情報はほとんどなく第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある前進陣地(竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁、竜王廟山、南山坡山、203高地など)が全く記載されていなかった。防御線でも二竜山、東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書くなど[6]誤記が多かった。

こうした中で要塞攻略の主軸をどの方向からにするかが議題となった。戦前の図上研究では平坦な地形の多い西正面からの攻略が有利であると考えられていた[7]が、第三軍司令部は大連上陸前の事前研究によりその方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、鉄道や道路もないので攻城砲などの部隊展開に時間を要し早期攻略できないと考え東北方面の主攻に方針変更した[8]。しかし新たに参謀本部次長となった長岡外史や、満洲軍参謀井口省吾らが西方主攻を支持し議論となる。ただし、この主攻の選択はあくまで要塞攻略の主軸をどの方面にするかの話であり、後に出る203高地攻略とは別の議論である[9]。結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出していた。7月3日、コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが塹壕に待ち構える日本軍の反撃に撤退した。

その後第三軍に第9師団や後備歩兵第1旅団が相次いで合流し戦力が増強された。このあと乃木は懸案だった主攻方面を要塞東北方面と決定した。この理由には下記があった[10]
要塞の死命を制する望台は東北方面にある。望台は第二防衛線内で最も標高が高く、その砲台はロシア軍支援砲撃の要であり、旅順港及び市街地も全てを見渡せる。

西方主攻を行うには敵前に曝露した平地を移動して危険な部隊展開せざるを得ない
鉄道も攻城砲などの砲を移動できる道路もないので砲兵展開が難しい

203高地や南山坡山などの前進陣地が多くあり、それらを制圧後2km前進した上で要塞防御線攻略着手となるので時間が掛かる

準備を整えた第三軍は7月26日旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し[11][12]、主目標はそのうちの東方の大孤山とした。3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、30日にロシア軍は大孤山から撤退した。この頃乃木は、来るべき総攻撃の期日を決断し、増援の砲兵隊の準備が整う予定の後の8月19日とした[5]

8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が大孤山に観測所を設置し[注 9]、旅順港へ12センチ砲で間接砲撃を開始。9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与え、浸水被害をもたらした[注 10]

8月10日、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に被害が出始めたことで、艦隊司令ヴィトゲフトは、極東総督アレクセイエフの度重なるウラジオストクへの回航命令に従い、旅順港を出撃した。これによって、海軍側が陸軍に要請した「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことが達成された。

しかし同日の黄海海戦では、日本連合艦隊は2度に亘り旅順艦隊と砲撃戦を行う機会を得つつも駆逐艦の1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失った。旅順艦隊は旅順港へ帰還した[注 11]

帰還した艦艇のほとんどは上部構造を大きく破壊され、戦闘力をほぼ喪失し、旅順港の設備では修理ができない状況だった[13]。最も損害が軽微だった戦艦セヴァストポリだけは外洋航行可能にまで修理された。帰還後の艦艇は、大孤山から観測されないよう、狭く浅い湾内東部に停泊させた。
第一回総攻撃(明治37年8月19日-24日)


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