旅行
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中世から近世にかけては店をかまえる居商人が次第に増えたものの、かわらず旅をする商人・職人も多かった[5](例えば、富山の薬売りなど)ほか、芸能民、琵琶法師瞽女等々もいた[5]

行政によって強制された旅も多かった。防人では東国の民衆がはるばる九州まで赴いた。また調などの貢納品(租庸調という一種の税金)の運搬で、重い荷物を背負って都まで行かねばならず、途中で食糧もつき落命する者が絶えなかった[5]。ちなみに日本の民俗学者の柳田國男は(日本の)旅の原型は租庸調を納めに行く道のりだ、と述べた。食料や寝床は毎日その場で調達しなければならず、道沿いの民家[要曖昧さ回避]に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」(「給ふ〔たまう〕」の謙譲語)といっていたことが語源であると考えられる、と柳田は述べている[6]

近世に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納のための強制された旅は激減した[5]

やがて自由に自発的に行う旅が生まれ発展していった[5]。平安時代末期までは交通環境は厳しく旅は危険を伴い、こうした苦難に挑むのには信仰という強い動機があった[5]僧侶修行伝道のため、一般人は参詣するために旅をした。平安末から鎌倉時代は特に熊野詣が盛んであった[5]室町時代以降、伊勢参りが盛んになり、また西国三十三所、四国八十八箇所のお遍路などが盛んになった[5]

宿泊費については15世紀には既に畿内で旅籠の定額制が確認され、遅れて16世紀には列島の広域で定着していた。中世後期には既に一般の庶民が広範囲な旅行を行いうる環境が成立しており、遠方への旅行も可能な環境が整備されていた[7]

それまで徐々に発達してきた交通施設・交通手段が、江戸時代に入ると飛躍的に整備された[5]徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝つと、翌年には五街道宿場を整備する方針を打ち出し、20年あまりのうちにそれは実現した。宿場町には、宿泊施設の旅籠木賃宿、飲食や休息をとるための茶屋、移動手段の駕籠、商店などが並んだ[5]。また貨幣も数十分の一?数百分の一の軽さのものに変わり、為替も行われ、身軽に旅ができるようになった[5]。またそれまで多かった山賊海賊も、徳川幕府300年の間にずいぶん減り、かなり安心して旅ができるようになった[5]

江戸時代には駕籠や馬も広く使われてはいたが、足代が高い事から長距離乗るのは大名や一部の役人などに限られ、一般人は使うとしてもほんの一部の区間だけが多かった。船に乗る船旅も行われ、波の穏やかな内海は比較的安全で瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系などでよく行われていたが、外海では難破の恐れもある危険なものであった。農民の生活は単調・窮屈・暗いものであって旅をしたがったが、各のほうは民衆が遊ぶことを嫌い禁止したがった。だが参詣の旅ならば宗教行為なので禁止できず、人々は伊勢参宮を名目として観光の旅に出た[5]。庶民の長旅できる機会は、一生に1度かせいぜい2度と、とても限られ、一度旅に出たからにはできるだけ多くの場所を見て回ろうとした。奈良などでは社寺の広大さに感嘆し、大坂では芸能浄瑠璃芝居に酔った[5]。若者の中には宿場の遊女と遊ぶ者もいた[5]。旅が貴族や武士だけでなく、一般民衆にも広まった[5]。現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味ははるかに大きかった[5]

また、江戸期には十返舎一九東海道中膝栗毛などの旅を題材とした旅文学・紀行文や絵画作品も多く作られた。


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