旅客機
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この頃、旅客機を利用する乗客は、高額な料金を支払える一部の人に限られ、座席クラスも現在のファーストクラス(一等)に相当するものしかなかった。飛行中に提供される食事は必ず提供される直前に調理または加熱され、白いテーブルクロスのかけられた食卓で銀製の食器を使用するなど、現在のファーストクラスを上回る贅沢さであった。

この時代の大洋を横断する長距離航路には、長い航続距離に対応して多くの燃料を搭載したまま離陸が可能な飛行艇が使用された[注 15][4]。当時は飛行場の数も少なく、あっても未整備であり、多くが1辺百メートル程の広場であり舗装された滑走路の方が珍しかった。飛翔体に艇体を持つことは重量的にはムダであったが、飛行艇ならば岸辺に桟橋を設ければ離着陸が可能となり、燃料で重くなった機体も自由水面を利用することで長い滑走を行い離陸が可能だった。万一の際に着水することで救助が期待できることも有利に働いた[注 16]。この状況は、第二次世界大戦によって世界中に多くの長い滑走路を持つ空港が作られるまで変わらなかった[注 17]。なお、ソビエト連邦でもイリューシンツポレフなどで旅客機が製造され、戦後は共産主義各国で使用された。

ハンドレページ H.P.42 : 初飛行1930年、巡航速度160km/時、乗客24-38名。複葉4発の陸上機で8機製作された。豪華さ以外に運航上の事故ゼロの安全性を誇った

ユンカース Ju52/3m : 初飛行1932年、巡航速度245km/時、乗客15-17名。単葉波板外板の3発機であり、胴部は金属トラスだが翼内は多桁構造だった。まだ固定脚だったが二重翼式フラップとエンジン・カウリングを備えていた。第二次世界大戦まで軍用輸送機としても生産されて総生産数は軍民合計で約4,800機以上であった

マーチン M130 : 初飛行1934年、巡航速度262km/時、乗客14-30名。パンアメリカン航空太平洋横断路線用に3機購入した4発飛行艇。近距離では乗客30名を乗せるが、海を越えるときは定員を14名として、ゆったりした旅を提供した。サンフランシスコ-マニラ間は島伝いに5日かかり、乗客は毎夜各島のホテルで宿泊し翌朝再度搭乗した。その豪華な旅は「チャイナ・クリッパー」の名と共に語り草になっている

ダグラス DC-3 : 初飛行1935年、巡航速度266km/時、乗客21名。アメリカ大陸横断用の高速機として設計されたプロプリナー双発機。のちにC-47輸送機として米軍に採用され、戦時中には英空軍などにも供与され1万機以上生産されたベストセラー機である

中島 AT-2 : 初飛行1936年、巡航速度310km/時、乗客8-10名。日本初の近代的な国産高速旅客機として開発され、のちに九七式輸送機として陸軍に採用された。

川西式四発飛行艇 : 初飛行1936年、巡航速度222km/時、乗客10-14名。元来は海軍の軍用輸送飛行艇(九七式飛行艇)であるが、民間型も生産され、日本の委任統治領であったサイパン・パラオ方面への定期便に就航した[注 18]

三菱 MC-20 : 初飛行1940年、巡航速度320km/時、乗客11名。九七式輸送機(AT-2)の後続機として、1937年初飛行の九七式重爆撃機一型(キ21-I)をベースに開発された陸軍の一〇〇式輸送機であるが、並行して民間型も生産された。搭載力には劣るものの欧米機を凌ぐ最高速度430-470 km/時の高速性能や航続力を誇り、また総生産数から戦前の日本を代表する国産輸送機・旅客機であった。
ロッキード コンステレーション
長距離国際線の確立 : 1940年代

旅客機は第二次世界大戦中もアメリカ国内で民間用の輸送機として大量に生産・使用され、4発大型機の安全性が確認された。その結果、大洋横断路線にも陸上機が大量に進出し、4発陸上機による長距離国際線が確立された。これ以後、旅客機としての飛行艇は生産されなくなった。第二次世界大戦後、アメリカ合衆国国内で航空旅行の需要が増大し、新しい機材の開発が活発に行われ、より速く・より快適な機体が作られた。この時代まで旅客機は酸素マスクの必要ない低空を飛んでいたが、高空でも快適な環境を提供できる与圧室が実用化され、空気の乱れの少ない高空を高速で飛ぶことができるようになった。また、世界大戦以降は性能を求める軍用輸送機と安全性と経済性を求める民間航空機に異なる機種になっていった[5]

ボーイング モデル307 ストラトライナー : 初飛行1938年12月31日、巡航速度352km/時、乗客37名。同社の爆撃機B-17(モデル299)の主翼等を流用して設計された4発機。旅客機として世界で最初に与圧室を実用化した豪華な機体である

ロッキード 049 コンステレーション : 初飛行1943年、巡航速度526km/時、乗客40 - 80名。巡航速度が同時代の日本の零式艦上戦闘機より速い4発機。完全与圧と高速で快適な旅を提供した。上下にゆるくS字型をえがいた胴体と3枚の垂直尾翼が特徴。

ダグラス DC-6 : 初飛行1947年、巡航速度494km/時、乗客50 - 100名。ダグラス社最初の実用4発与圧機。DC-6はその後DC-7に進化し、コンステレーション→スーパーコンステレーションと激しく競争した

ボーイング モデル377 ストラトクルーザー:初飛行1947年7月8日、巡航速度480 - 544 km/時、乗客52 - 60名。爆撃機B-29の主翼等を流用した4発機。胴体は2階建てで飛行中に酒を楽しめるバーもあった。ジェット時代への過渡期であった上、エンジントラブルが頻発したため生産数は56機と少なかった

ジェット旅客機の誕生 : 1950年代4種のエンジンの速度に対する推力の変化
1.ロケット・エンジン 2.ターボジェット・エンジン 3.ターボファン・エンジン 4.プロペラ式
従来のプロペラ式エンジンは飛行速度が上昇するとプロペラ翼の先端付近から音速を超えるため[注 19]、推力が減少する。ターボジェットやターボファンは空気取り入れ口を持つことで低速飛行時でも高速飛行時でもほぼ一定速度の空気がファンブレードに供給されるので、効率の低下があまり生まれない。4種のエンジンの速度に対する燃料消費率の変化

ジェット機は第二次世界大戦中にドイツとイギリスで戦闘機として実用化された。プロペラ機の2倍近い速度が出せるジェット旅客機は、戦後まずイギリスで中型機コメットとして誕生した。プロペラ機特有の振動から解放された快適さと高速で画期的な飛行機とされたが、与圧室の強度不足から相次いで空中爆発事故を起こしたり、乗客数が36名(当時の4発プロペラ機の半分)に限られるなど中途半端な機体であった。本格的ジェット時代はアメリカのボーイング707の誕生によって開かれた。その後ジェットエンジンは燃費の悪いターボジェットから燃費の良いターボファンに進歩し、航続性能も大幅に改善された。

デハビランド・コメット : 初飛行1952年、巡航速度720km/時、乗客36名。世界初の実用4発ジェット旅客機。世界初のジェット旅客機だったが、気圧の低い高々度での与圧の繰り返しによる金属疲労が原因の墜落事故(コメット連続墜落事故)が多発した。これらの問題を解決したコメット4が1958年に就航したが、下記ボーイング707などの本格ジェット旅客機に主役の座を奪われた

ボーイング707 : 初飛行1957年12月20日、巡航速度973km/時、乗客140 - 200名。従来のプロペラ4発機の2倍の速度と2倍の搭載量を持つ真に画期的な4発ジェット旅客機。運用する航空会社にとっても利益に結びつく機体であった

ダグラス DC-8 : 初飛行1958年、巡航速度マッハ0.82、乗客140 - 200名。ボーイング707に対抗して作られた4発ジェット旅客機で、707と激しく競争した。設計が後になった分 新しい技術が使われている。特に脚が長く、派生型では胴体の大幅な延長が可能だった

コンベア880 : 初飛行1959年、ボーイング707やDC-8の対抗機として開発された。初期のジェット旅客機の中では最速のスピードを売りにしていたが、実際には狙った通りの性能が出ず、また操縦性にも難があった。最大乗客数は110名程度。後継機として、コンベア990がある

シュド・カラベル : 初飛行1955年、巡航速度805km/時、乗客80名。ヨーロッパ大陸内をこまめに飛び回る双発ジェット機として作られた。機体の一部や主翼などはコメットと共通、エンジンも英国製だが、三角形の客室窓やエンジンの配置にフランス製らしさがあふれる機体。エンジン後部マウント式旅客機の1号機である

旅客機の大衆化時代 : 1960年代

1962年から始まったアメリカ空軍の新輸送機開発開発プロジェクト[注 20] によって高バイパス比ターボジェットエンジンが開発された。従来のバイパス比が1から1.5程度だったものを一気に5から6程まで上げることで、燃料消費率が大きく向上した。


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