新藤兼人
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また西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収される騒ぎもあり[7]、各国で物議を醸したが世界で反響を呼び、チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。これ以降も広島原爆をテーマとした作品をつくった。また長崎原爆ものでは1950年『長崎の鐘』で脚本を担当している。

原爆の子主演の乙羽は映画制作の際に近代映画協会へ強引に移籍、以降新藤と乙羽の関係は続き、私生活では新藤には本妻・美代とその子たちがいたもののこの頃より乙羽と愛人関係になる[10]

以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。しかし芸術性と商業性との矛盾に悩み失敗と試行錯誤を繰り返した。核兵器の作品も続き、1959年(昭和34年)『第五福竜丸』を発表するも興行的には失敗に終わり、近代映画協会には多額の借金が残り解散の危機に陥った[13]

この頃、同時期に日本映画に衰退の陰りが見え大きな映画会社の経営が困難になり始めた。しかし、産業としての映画の衰退は「社会派映画」や「前衛芸術映画」の躍進のチャンスでもあった。大映画会社による映画館の独占支配体制が緩み、小さな独立系プロの製作する映画にも上映の機会を得ることができるようになった。
『裸の島』

1960年(昭和35年)、経営が立ちゆかなくなった近代映画協会は、その解散記念作品として新藤が長年暖めていた無言の映画詩『裸の島』の制作に入る[13][14]。広島県三原市の無人島である宿弥島を舞台に、その南にある佐木島でロケを敢行、制作費はわずか500万円、夫婦役の殿山・乙羽含めスタッフ13人に佐久島の小学生も加わり、撮影期間1ヶ月で作り上げた[14]。新藤は後のインタビューで以下のことを語っている。僕の映画人としての理念はね、映画は映像である、映像で押して、押しまくっていけば、必ず真実はつかめる。それでわざわざせりふを抜いた映画なんですよ。俳優が農民の演技をやるんじゃなくて、島に農民の夫婦が住んでいて、その記録映画を撮る、というように作りたかった。 ? 新藤兼人、中国新聞2009年9月1日付[14]

この映画が評価されたのは日本国内よりも海外で、1961年(昭和36年)モスクワ国際映画祭でグランプリを獲り、新藤監督は世界の映画作家として認められた[14]。モスクワ国際映画祭の際には、各国の映画バイヤーから次々に買い入れの申し入れがあり、最終的に世界62ヶ国に作品の上映権を売ることで、それまでの借金を返済した[14]

このモスクワ国際映画祭ではその後の新藤作品の殆どを出品し、それらは当地で評価されており、新藤は「足を向けて寝れない」とこの映画祭を感謝している[15]

この成功は、限られた観客を相手に、極端に低い製作費で優れた作品を撮ることが可能であることを示し、大会社の資本制約から離れる事で自由な映画表現と制作ができる事を証明した。そして製作手法(オール地方ロケ。出演者及びスタッフがロケ地で合宿体制を組む。スタッフ全員参加のミーティングを行い、本来の持ち場を越えて意見を交換する。等)は、その後の邦画界におけるインディペンデント映画の製作に、多大な影響を与えた。

宿祢島のある三原市は『裸の島』の他に、『らくがき黒板』『かげろう』『三文役者』でロケ地として用いており、この縁で三原市名誉市民に顕彰されている[16]
社会派作品、性のタブーに挑戦

新藤作品には社会性の強い作品、性のタブーに挑戦した作品がいくつか存在する[17]。1964年の『鬼婆』では、吉村実子、佐藤慶が全裸で走る場面を撮影。1970年(昭和45年)連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』。1972年にはフラワー・メグのヌードがほぼ全編で流れる『鉄輪(かなわ)』[18]を発表した。『鉄輪』は日本の伝統芸能に題材を取った「前衛的作品」だった。1974年引揚者から東北開拓農民となった者達を描いた『わが道』、1977年(昭和52年)津軽三味線の高橋竹山を題材とした『竹山ひとり旅』、広島原爆で死亡した桜隊を題材とした『さくら隊散る』、家庭内暴力に材を取った『絞殺』、死と不能をテーマにした『性の起源』、樋口可南子が美しいヌードを披露した『北斎漫画』[19](1981年)。同作品では田中裕子もヌードを披露している。性のタブーに挑戦した『?東綺譚』などを発表する[17]。新藤の世代で〈性と人間〉にこれだけ取り組んだ映画作家は稀である。また「頼まれた仕事は断らない」を信条に、近代映画協会における自作の映画制作と平行し、大手映画会社の企画作品の脚本も多数手がけた。中には映画史に残る名作、話題作も含まれた。「優れた芸術家は多作である」という観点から見れば、これも特筆すべき才能といえる。

評価の高い脚本作品に、川島雄三監督/『しとやかな獣』(1962年)、鈴木清順監督/『けんかえれじい』(1966年)、中平康監督『混血児リカ』シリーズ(1970年代)、神山征二郎監督/『ハチ公物語』(1987年)などがある。娯楽怪作としては江戸川乱歩の原作をミュージカル仕立てにした『黒蜥蜴』(1962年)などがある。テレビドラマ演劇作品も含めると手がけた脚本は370本にもおよび、多くの賞を受賞した。「ドラマも人生も、発端・葛藤・終結の3段階で構成される」というのが持論である。監督としては純娯楽作品にはほとんど関心を示していないが、脚本家としてはそちらにも強く、コメディやミステリーなどにも高い技術を発揮するアルチザン的側面も持つ。他の巨匠といわれる監督兼脚本家たちの多くが自身の監督作品の脚本執筆をメインにしているのに対し、他の監督に脚本を提供し、なおかつ高い評価を受ける仕事が非常に多く、そちらに限定しても最高クラスの脚本家である。さらにプロデューサー、経営者、教育者、著述者としてなど、いくつもの顔をもって日本映画へ大きく貢献している。

また私生活においては、本妻・美代の申し出により1972年(昭和47年)60歳の時に正式に離婚(美代は5年後の1977年(昭和52年)死去)[10]1978年(昭和53年)に乙羽信子と再婚した[10]。1994年(平成6年)乙羽も亡くなっている[10]。老いをテーマとした『午後の遺言状』は、乙羽と杉村春子のためにシナリオを書いたもので、乙羽にとっては遺作、杉村にとっては最後の映画出演作品となった[20]。1989年に亡くなった朋友・殿山泰司をモデルに『三文役者』を書いている[20]

70年以上の映画人生で、世界最長老の映像作家のひとりである事で知られていた。また池広一夫神山征二郎千葉茂樹、松井稔、金佑宣、田代廣孝田渕久美子ら多くの門下生を出した。尚、近代映画協会は1960年代に100近く有った独立プロのうち唯一成功し現在も存続し、映画作品を送り出している。
晩年

長年の映画製作に対して1996年(平成8年)に第14回川喜多賞[21]1997年(平成9年)に文化功労者2002年(平成14年)に文化勲章を授与された[15]。『裸の島』『裸の十九才』でグランプリ、『生きたい』で金賞を受賞したモスクワ国際映画祭では、2003年(平成15年)に特別賞を受賞している。また、映画を通じて平和を訴え続けた功績により2005年(平成17年)に谷本清平和賞を受賞。「多くの傑作映画を世に送り出し、日本最高齢現役監督として映画「一枚のハガキ」を完成させた」として、2011年(平成23年)に第59回菊池寛賞を受賞。「一枚のハガキ」は2010年10月31日クランクアップしていた。

1996年(平成8年)、日本のインディペンデント映画の先駆者である新藤監督の業績を讃え、独立プロ58社によって組織される日本映画製作者協会に所属する現役プロデューサーのみがその年度で最も優れた新人監督を選ぶ新藤兼人賞を新たに創設した。

2010年(平成22年)の時点で日本最高齢の現役映画監督であり、世界でもマノエル・ド・オリヴェイラに次ぐ位置にあったが、同年の第23回東京国際映画祭表彰式で『一枚のハガキ』を監督引退作とすることを公表したが、求められればまだ撮りたい気持ちも表していた。晩年は、高齢で移動に車いすが欠かせなくなっていた。


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