新藤兼人
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さようなら」と挨拶した[23]
死去

2012年(平成24年)5月29日老衰のため東京都港区の自宅で亡くなった[7][24][25]。満100歳没(享年101)。葬儀・告別式は2012年6月3日、多くの映画関係者や俳優などが参列する中、増上寺光摂殿で執り行われた[26]。墓所は妙心寺衡梅院にあるが、遺骨の半分は鎌倉霊園に埋葬された後、「裸の島」の舞台である三原市宿祢島に散骨された。

2012年6月26日、日本政府は新藤が数々の作品を世に送り出した功績を讃え、多年に亘る映画界への貢献を評価して死去日の5月29日をもって従三位に追叙する閣議決定を行った[27]
映画
監督作品

愛妻物語(1951年) - キネマ旬報ベストテン第10位

雪崩(1952年)

原爆の子(1952年) - カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭グランプリ、エディンバラ国際映画祭脚本賞・名誉賞、英国アカデミー賞国連平和賞、メルボルン国際映画祭グランプリ、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞、フランス映画愛好家連盟賞

縮図(1953年)原作:徳田秋声 - キネマ旬報ベストテン10位

女の一生(1953年)

どぶ(1954年)

(1955年)

銀心中(1956年)原作:田宮虎彦

流離の岸(1956年)

女優(1956年)

海の野郎ども(1957年) - 石原裕次郎主演作。船に乗ってやって来た外国人労働者との軋轢と交流を描く

悲しみは女だけに(1958年)

第五福竜丸(1959年) - キネマ旬報ベストテン8位

花嫁さんは世界一(1959年) - 東宝製作であり、フランキー堺雪村いづみ主演により日系米国人青年の花嫁探しを描いた、新藤監督異色のロマンティック・コメディ

裸の島(1960年) - モスクワ国際映画祭グランプリ、メルボルン国際映画祭グランプリ、リスボン映画祭銀賞、ベルリン国際映画祭セルズニック銀賞、諸国友好のための親善映画祭グランプリ、マンハイム映画祭グランプリ、宗教と人間の価値映画祭国際ダグ・ハマーショルド賞、キネマ旬報ベストテン6位

人間(1962年)原作:野上弥生子 - 文部省芸術祭文部大臣賞

(1963年) - 毎日芸術賞、キネマ旬報ベストテン8位

鬼婆(1964年)

悪党(1965年)原作:谷崎潤一郎 - キネマ旬報ベストテン9位

本能(1966年) - キネマ旬報ベストテン7位

性の起原(1967年)

藪の中の黒猫(1968年)

強虫女と弱虫男(1968年)

かげろう(1969年) - キネマ旬報ベストテン4位、文化庁芸術祭優秀賞

触角(1970年)

裸の十九才(1970年) - モスクワ国際映画祭金賞、キネマ旬報ベストテン10位

鉄輪(1972年)

讃歌(1972年)原作:谷崎潤一郎

(1973年)原作:夏目漱石

わが道(1974年) - キネマ旬報ベストテン6位

ある映画監督の生涯 溝口健二の記録(1975年) - キネマ旬報ベストテン1位・監督賞

竹山ひとり旅(1977年) - モスクワ国際映画祭監督賞・ソ連美術家同盟賞、キネマ旬報ベストテン2位

ドキュメント8.6(1978年) - テレビドキュメンタリーとして製作。「原爆の子」の子役達との再会。原爆投下したエノラ・ゲイ号の元機長ポール・ティベッツとの面談を要求

絞殺(1979年) - ヴェネツィア国際映画祭、乙羽信子「主演女優賞」

北斎漫画(1981年) - キネマ旬報ベストテン8位

地平線(1984年)

ブラックボード(1986年)

落葉樹(1986年)

さくら隊散る(1988年) - キネマ旬報ベストテン7位

?東綺譚(1992年) - キネマ旬報ベストテン9位

午後の遺言状(1995年) - モスクワ国際映画祭ロシア批評家賞、キネマ旬報ベストテン1位、日本アカデミー賞最優秀作品賞 他多数


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