新藤兼人
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従三位広島県名誉県民[1]広島市名誉市民[2]、広島県三原市名誉市民[3]

日本のインディペンデント映画の先駆者であった。性のタブーに挑戦したり社会派映画を制作したりと、冒険的な作品を発表した点が、同世代の監督と大きく異なる点である。『鉄輪(かなわ)』のように前衛的な作品まで制作した。脚本作品も、約370本と非常に多い。
人物・経歴
映画界に入るまで

1912年(明治45年)、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町石内)生まれ。4人兄弟の末っ子[4]。広島市内から一山越えた農村で豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで没落した[5]。田畑を売り、たったひとつ残った蔵で父母と3人で暮らし、石内尋常高等小学校(現在の広島市立石内小学校)へ通う[5]。当時、長兄は尾道警察署に勤務、姉2人は家が没落したため長姉は花嫁移民として渡米し次姉は広島で看護師になった[4]。なお生家であるその蔵は1999年まで新藤の生家として保存されていたが取り壊され、当地には「生誕の地」碑が建っている[5]。1927年(昭和2年)石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられた[5]。この時代のことは『石内尋常高等小学校 花は散れども』に描かれている[5]

16歳の時に、尾道の長兄宅に居候することになる[4]。この兄の家は東土堂町にあり、隣が大林宣彦の実家であった[6]。何もすることがなかったが兄に気を遣って家に居づらかったため毎日尾道の町でぶらぶら過ごしていた[4]1933年昭和8年)、徴兵検査が終わった頃、たまたま見た山中貞雄映画『盤嶽の一生』に感激し映画を志し、京都へ行くことを決める[4]。すごい映画に出合った。尾道の“玉栄館”という映画館で見た。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方を考えさせる、知恵の働いた映画だった。「これだっ」と思った、突然ね、映画をやろうと思った。 ? 新藤兼人、中国新聞1990年特集「私の道」[7]

交通費を貯めるため、兄の紹介で自転車卸「山口バイシクル商会」に勤めた[4]。なおこの商会は高橋源一郎の実家である[8]。大林宣彦によると、新藤は大林の尾道の実家の持ち家に住んでいたことがあり、幼少期の大林は新藤と映画を観たことがあるという[9]。ただ大林が5、6歳の頃つまり1942年・1943年頃と証言しており[9]、この時期ではない可能性が高い。

兄の紹介で京都府警察の刑事の伝手を頼りに、京都へ出る[4]。ただすぐには撮影所には入ることが出来ず、絶望し一度尾道へ帰るが、諦めきれずに再び京都へ戻る[4]
下積み時代

1934年(昭和9年)22歳の時に新興キネマに入る[4]。志望していた映画助監督への道は狭く、体が小さいため照明からも敬遠され、入ることが出来たのは現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートさせる[4]満州国帝制に移行した年であった。目指す創造する世界とはかけ離れた、長靴を履きながらの辛い水仕事を1年ほどつとめる。撮影所の便所で落とし紙にされたシナリオを発見、初めて映画がシナリオから出来ているものと知った[4]

新興キネマ現像部の東京移転に同行し美術部門に潜り込む。美術監督であり美術部長である水谷浩に師事。美術助手として美術デザインを担当した。仲間からは酷評されても、暇を見つけてシナリオを書き続け投稿し賞を得るが、映画化はされなかった。黒沢明や神代辰巳、脚本家の山田信夫らも「監督が脚本を待っていてどうする。待っていても来ないよ。自分で書くんだよ」との言葉を残している。家が近所だった落合吉人が監督に昇進し、脚本部に推薦され『南進女性』で脚本家デビュー。

1941年(昭和16年)、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都興亜映画に出向。本作で原寸大の松の廊下を製作したのは新藤である。溝口は俳優から演技を聞かれても「反射してください」というばかりで何も俳優に教えないため、他の俳優・スタッフ同様に新藤も反発していた。しかし出来上がった作品を見ると感銘を受けた。伝手を頼り溝口の内弟子になることになり、シナリオを1本書いて溝口に提出するが、「これはシナリオではありません、ストーリーです」と酷評され、自殺を考える程の大きなショックを受ける。スクリプターをしていた内妻・久慈孝子の励ましで奮起し[10] 劇作集を読みあさり再出発を誓う。孝子とは1939年に結婚したとする資料もある[7]

1942年(昭和17年)、情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる。当選は東宝助監督黒澤明の『静かなり』であった。翌年『強風』が当選。これを知った溝口から連絡があり生涯ただ1度だけ祇園で御馳走にあずかる。1944年(昭和19年)、所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍。
海軍召集

同1944年4月、脚本を1本も書かないうちに日本海軍召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団[11]。新藤は「戦争に行けば死ぬに決まってる」「もうシナリオは書けないのか」と絶望した[11]。任務は新藤曰く“掃除部隊”で、最初は奈良天理教本部宿舎に海軍飛行予科練習生が配置されることになったため、次に兵庫宝塚歌劇団宝塚大劇場宝塚音楽学校に潜水艦乗りや航空隊(宝塚海軍航空隊)が配置されることになったため、そこを掃除するというものだった[11]

既に32歳ながら年下の上等水兵の若者に扱き使われ、彼らの身の周りの世話をする。上官にはクズと呼ばれ、木の棒で気が遠くなる程叩かれ続けた。兵隊は叩けば叩くほど強くなると信じられていた時代だった。天理教本部を掃除した100名のうち大半が前線に送られ[11]、94人が戦死した。

この間、内妻の孝子は結核に罹るが、貧しさのためろくに栄養をつけることができず死去している[10]

1945年(昭和20年)、宝塚海軍航空隊所属にて広島市への原子爆弾投下を知り、そして第二次世界大戦終戦を迎える。これらの事は、60年後に製作された『陸に上った軍艦』(山本保博監督)で描かれた[11]

東京でのアパートは空襲により焼けていたため、一旦尾道の兄のところに身を寄せている[12]。看護婦をしていた姉は当時尾道へ移っていたため無事で、被爆時には広島で看護活動をしていた[12]。新藤自身も被爆後の広島に足を踏み入れている[12]。そして松竹大船撮影所に復帰するため上京することになる。
脚本家としてデビュー『アサヒグラフ』 1948年2月11日号より


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