評価の高い脚本作品に、川島雄三監督/『しとやかな獣』(1962年)、鈴木清順監督/『けんかえれじい』(1966年)、中平康監督『混血児リカ』シリーズ(1970年代)、神山征二郎監督/『ハチ公物語』(1987年)などがある。娯楽怪作としては江戸川乱歩の原作をミュージカル仕立てにした『黒蜥蜴』(1962年)などがある。テレビドラマ、演劇作品も含めると手がけた脚本は370本にもおよび、多くの賞を受賞した。「ドラマも人生も、発端・葛藤・終結の3段階で構成される」というのが持論である。監督としては純娯楽作品にはほとんど関心を示していないが、脚本家としてはそちらにも強く、コメディやミステリーなどにも高い技術を発揮するアルチザン的側面も持つ。他の巨匠といわれる監督兼脚本家たちの多くが自身の監督作品の脚本執筆をメインにしているのに対し、他の監督に脚本を提供し、なおかつ高い評価を受ける仕事が非常に多く、そちらに限定しても最高クラスの脚本家である。さらにプロデューサー、経営者、教育者、著述者としてなど、いくつもの顔をもって日本映画へ大きく貢献している。
また私生活においては、本妻・美代の申し出により1972年(昭和47年)60歳の時に正式に離婚(美代は5年後の1977年(昭和52年)死去)[10]。1978年(昭和53年)に乙羽信子と再婚した[10]。1994年(平成6年)乙羽も亡くなっている[10]。老いをテーマとした『午後の遺言状』は、乙羽と杉村春子のためにシナリオを書いたもので、乙羽にとっては遺作、杉村にとっては最後の映画出演作品となった[20]。1989年に亡くなった朋友・殿山泰司をモデルに『三文役者』を書いている[20]。
70年以上の映画人生で、世界最長老の映像作家のひとりである事で知られていた。また池広一夫、神山征二郎、千葉茂樹、松井稔、金佑宣、田代廣孝、田渕久美子ら多くの門下生を出した。尚、近代映画協会は1960年代に100近く有った独立プロのうち唯一成功し現在も存続し、映画作品を送り出している。 長年の映画製作に対して1996年(平成8年)に第14回川喜多賞[21]、1997年(平成9年)に文化功労者、2002年(平成14年)に文化勲章を授与された[15]。『裸の島』『裸の十九才』でグランプリ、『生きたい』で金賞を受賞したモスクワ国際映画祭では、2003年(平成15年)に特別賞を受賞している。また、映画を通じて平和を訴え続けた功績により2005年(平成17年)に谷本清平和賞を受賞。「多くの傑作映画を世に送り出し、日本最高齢現役監督として映画「一枚のハガキ」を完成させた」として、2011年(平成23年)に第59回菊池寛賞を受賞。「一枚のハガキ」は2010年10月31日にクランクアップしていた。 1996年(平成8年)、日本のインディペンデント映画の先駆者である新藤監督の業績を讃え、独立プロ58社によって組織される日本映画製作者協会に所属する現役プロデューサーのみがその年度で最も優れた新人監督を選ぶ新藤兼人賞を新たに創設した。 2010年(平成22年)の時点で日本最高齢の現役映画監督であり、世界でもマノエル・ド・オリヴェイラに次ぐ位置にあったが、同年の第23回東京国際映画祭表彰式で『一枚のハガキ』を監督引退作とすることを公表したが、求められればまだ撮りたい気持ちも表していた。晩年は、高齢で移動に車いすが欠かせなくなっていた。 2012年(平成24年)2月14日に東京都内で行われた第54回ブルーリボン賞の授賞式では新人賞を受賞した当時7歳の芦田愛菜との「92歳差のツーショット」で沸かせた[22]。2ヵ月後の4月22日に、100歳を迎え、東京都内で誕生会が開かれ、集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した[23]。 2012年(平成24年)5月29日、老衰のため東京都港区の自宅で亡くなった[7][24][25]。満100歳没(享年101)。葬儀・告別式は2012年6月3日、多くの映画関係者や俳優などが参列する中、増上寺光摂殿で執り行われた[26]。
晩年
死去