大谷竹次郎や白井信太郎らが設立に深く関わっており、事実上松竹の傍系会社であった。白井信太郎は当初京都撮影所長であったが、のちに社長に就任した。監督には伊丹万作、溝口健二、脚本家に当時新人の新藤兼人(監督デビューは戦後)、俳優には片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、山田五十鈴、山路ふみ子、逢初夢子、河津清三郎、浦辺粂子、宇佐美淳、高田稔らが在籍した。子役時代の森光子も同社に籍を置いている。初期には嵐寛寿郎の嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)や入江たか子の入江ぷろだくしょん(入江プロ)とも提携し、作品を配給した。1936年(昭和11年)、後の大映社長となる永田雅一が入社、京都撮影所長に就任した。
1937年(昭和12年)5月11日には、直営館として経営していた浅草電気館、麻布新興館の2館で従業員が給料2割増と大入手当の復活を要求して、全日本労働総同盟(全総)関東一般使用人組合の本部員内田定太郎とともに交渉に入り、吉村百太常務取締役、内田錦一庶務部長出席のもと同月15日には解決したという記録が残っている[1]。吉村百太は国際活映から松竹に移籍したあと、同社の東京撮影所の用地取得に功のある人物であり[13]、内田錦一はのちに映画館経営を行う保善社を設立した人物である[14]。
1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると洋画の輸入が滞り、邦画で穴を埋めようにもフィルムの確保が容易ではなく、次第に配給網に綻びが生じるようになった。苦肉の策として映画の合間に漫才などの実演を入れざるを得ず、次第に芸人の引き抜きが活発になった。こうした流れに新興キネマは演芸部を新設して対応、吉本興業から高額報酬を条件に人気芸人を引き抜いて移籍させた(後述)。新興側としては吉本の2-3倍の報酬を支払っても、映画の製作費よりは安いという事情もあった。引き抜きとの批判については、希望者に門戸を開放したものと応えている[15]。
1942年(昭和17年)、戦時統合によって、日活の製作部門、大都映画と合併、同年1月10日の創立総会をもって大日本映画製作株式会社(大映、現在の角川映画)となる[2]。新興キネマの本社が、大映の本社となった[3][2]。創立登記は同年1月27日で[2]、新興キネマは消滅し、2つの撮影所、11館の直営劇場はいずれも大映が引き継いだが[6]、製作本数削減のため撮影所は閉鎖休業した。 順不同。body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}
おもなフィルモグラフィ
『阿波狸合戦』
『静御前』
『姉』
『毒草』
『渦巻』
『女夫波』
『月魄』
『彼女の運命』
『磯の源太 抱寝の長脇差』
『月よりの使者』
『右門捕物帖 三十番手柄 帯解け仏法』
『大尉の娘』
『羅生門』
『太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻』