新興キネマ
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吉村百太は国際活映から松竹に移籍したあと、同社の東京撮影所の用地取得に功のある人物であり[13]、内田錦一はのちに映画館経営を行う保善社を設立した人物である[14]

1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると洋画の輸入が滞り、邦画で穴を埋めようにもフィルムの確保が容易ではなく、次第に配給網に綻びが生じるようになった。苦肉の策として映画の合間に漫才などの実演を入れざるを得ず、次第に芸人の引き抜きが活発になった。こうした流れに新興キネマは演芸部を新設して対応、吉本興業から高額報酬を条件に人気芸人を引き抜いて移籍させた(後述)。新興側としては吉本の2-3倍の報酬を支払っても、映画の製作費よりは安いという事情もあった。引き抜きとの批判については、希望者に門戸を開放したものと応えている[15]

1942年(昭和17年)、戦時統合によって、日活の製作部門、大都映画と合併、同年1月10日の創立総会をもって大日本映画製作株式会社(大映、現在の角川映画)となる[2]。新興キネマの本社が、大映の本社となった[3][2]。創立登記は同年1月27日で[2]、新興キネマは消滅し、2つの撮影所、11館の直営劇場はいずれも大映が引き継いだが[6]、製作本数削減のため撮影所は閉鎖休業した。
おもなフィルモグラフィ

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阿波狸合戦

静御前



毒草

渦巻

女夫波

月魄

彼女の運命

磯の源太 抱寝の長脇差

月よりの使者

右門捕物帖 三十番手柄 帯解け仏法

大尉の娘

羅生門

太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻

唐人お吉

貞操問答

片腕仁義

火の翼

情熱地獄

突破無電

若い力

街の姫君

己が罪

侍ニッポン

照る日くもる日

不如帰

間貫一

沓掛時次郎

宮本武蔵

忠次売出す

映画館

同社が経営した映画館の一覧である(所在地は当時のもの)[6]。合併によりいずれも大映の直営館になった[6]

浅草電気館 - 東京府東京市浅草区浅草公園六区4番地[1]

麻布新興館 - 東京府東京市麻布区三河台町13番地[1]

築地映画劇場 - 東京府東京市京橋区築地3丁目8番地

沼袋映画劇場 - 東京府東京市中野区沼袋町241番地

早稲田映画劇場 - 東京府東京市淀橋区(1945年4月空襲で焼失[16]

保土ヶ谷映画劇場 - 神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町165番地

千葉新興映画劇場 - 千葉県千葉市本千葉町73番地(のちの千葉セントラル劇場)

水戸新興劇場 - 茨城県水戸市裡信願寺町(1945年4月空襲で焼失[17]

仙臺世界館 - 宮城県仙台市国分町138番地

新潟新興映画劇場 - 新潟県新潟市十二番街2866番地(現在の映劇大要

濱松新興館 - 静岡県浜松市鍛冶町120番地


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