制定過程で元老院では佐野常民(当時元老院議官)らが抑圧につながるおそれがあるとして、いったん太政官に返付した[1]。しかし、太政官から再び上提され、元老院で第5条が削除されて反対少数で可決された[1]。制定後、1880年(明治13年)までに203名の記者が禁獄に入った[1]。
さらに1883年(明治16年)4月16日付で厳しい拘束規定を含むなど改正・強化された[1]。1ヶ月以内に47紙が廃刊し、前年には355紙あったものが、年末には199紙に激減したという。このために俗に「新聞撲滅法」とも称された[2]。
その後、第2次松方内閣において現職の内閣書記官長(現・内閣官房長官)高橋健三の論文を掲載した自身の編集雑誌『二十六世紀』が内務省より発売禁止処分を受けると、高橋が新聞紙条例の改正を指示したことにより、明治30年(1897年)になって内務省による発売停止・禁止・差押規定が廃止された(二十六世紀事件)。
この法規は1909年(明治42年)、第26回帝国議会の協賛を得て法律となった『新聞紙法』に継承されて失効した。詳細は「新聞紙法#新聞紙法の制定」を参照 以下主な内容を示す。
沿革
明治8年(1875年)6月28日新聞紙条目ヲ廃シ新聞紙条例ヲ定ム(明治8年太政官布告第111号)により、従前の新聞紙発行条目(明治6年10月19日太政官第352号(布))(発行許可制、国体誹謗・政法批評禁止、官吏の職務上の情報漏洩の防止などを規定)を「廃更」する形で成立。発行の許可制、持主・社主・編集人・筆者・印刷人の法的責任、騒乱煽起・成法誹毀の論説取締、さらに特別刑罰規定をもうけ、手続違反にたいし初めて行政処分規定をさだめる。
明治16年(1883年)4月16日新聞紙条例改正(明治16年太政官布告第12号)により全部改正。発行保証金制度の新設、法的責任者の範囲拡大、身替わり新聞の禁止、外務卿・陸海軍卿の記事掲載禁止権新設、行政処分の拡充など。
明治20年(1887年)12月28日新聞紙条例改正ノ件(明治20年勅令第75号)により全部改正。発行届出制度創設。
明治30年(1897年)3月24日改正公布。発行停止・禁止、発売禁止の行政処分の緩和、皇室の尊厳に関する取締記載。
明治42年(1909年)新聞紙法(明治42年5月6日法律第41号)により廃止。
内容
発行を許可制とした。
違反の罰金・懲役を明確に定めた。
社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、違反時の罰則を定めた。
社主は内国人でなければならないとされた。
同時発布の讒謗律との関係を明示した。
記事には筆者の住所・氏名を明記することを原則とした。
筆名を禁止した。
掲載記事に対する弁明・反論・訂正要求が寄せられた場合の次号での掲載を義務づけた。
犯罪(当時の法律下での犯罪)を庇う記事を禁じた。
政府の変壊・国家の転覆を論じる記事、人を教唆・扇動する記事の掲載を禁じた。
裁判の公判前の記事および審判の議事の掲載を禁じ、重罰を定めた。
官庁の許可のない建白書の掲載を禁じた。
錦絵は出版届出年月日、画作者名、版元の住所氏名を明記することとした。(明治8年6月28日)「新聞紙法#掲載禁止および差止」および「日本における検閲#新聞」も参照
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k 彌吉光長「新聞紙条例と讒謗律の犠牲者―明治初期出版変転
^ 【荒俣宏の毎日コレ検索】新聞紙条例絡み勢力争い『毎日新聞』夕刊2019年2月9日(13面)。
関連項目
讒謗律
新聞紙法
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