新築地劇団
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拘束者の大部分は当日中に解放されている[4]

1934年(昭和9年)、プロットの解散後の村山知義の呼びかけによる「新劇の大同団結」には劇団としては参加せず、分裂によって、新たに設立された「新協劇団」とは一線を画した[2]。以後、薄田研二が幹事長となり、石川尚、和田勝一、八田元夫らの幹事会を中心として、劇団の再編以降は、岡倉士朗永田靖本庄克二東野英治郎)らも加わって活動した。
1938年「土」関西公演のチラシ

1936年(昭和11年)、山川幸世が入団。演出陣は、千田是也に加えて、岡倉士朗、山川幸世、八田元夫、青山杉作という多様な布陣となり、藤森成吉渡辺華山」、長塚節「土」、三好十郎「彦六大いに笑ふ」、ゴーリキー「どん底」、イプセン「幽霊」、藤森成吉「江戸城明渡」、和田勝一「海援隊」(久松保夫が初舞台)、水木洋子「早春」、真山青果「坂本竜馬」など多彩な演目を上演した[3]

1938年(昭和13年)3月6日から3月20日まで「綴方教室」(古川良範脚本、岡倉士郎演出、山本安英本庄克二ら出演)上演。

1939年(昭和14年)からは日活と契約して舞台を映画化した「海援隊」などに出演[3]

1940年(昭和15年)5月、千田是也が脱退し、岡倉士朗と山川幸世も続いて退団した。同年8月19日新協劇団などを含めた大がかりな弾圧がおこなわれ、八田元夫、和田勝一、石川尚、本庄克二、石黒達也、中江隆介、池田生二ら14名、後援会についても小西綾ら大阪後援会の4名をはじめ、静岡と京都で後援会関係者が逮捕された[3]。脱退していた千田是也、岡倉士朗、山川幸世も逮捕された。逮捕を免れた薄田研二は劇団の解散を当局に強制され[3]、新築地劇団は8月23日に解散した。

エピソード

海外ミステリー小説の翻訳でも知られる久生十蘭は、1929年7月の『北緯五十度以北』で舞台監督を務め、1933年、劇団演出部に正式に所属したが、すぐに退団した。
出典^ 文芸家協会編『文芸年鑑 昭和5年版』新潮社、1930年、pp.233-234
^ a b「新築地劇団」日本大百科全書(小学館)
^ a b c d e f 法政大学大原社研_戦時中の新劇運動〔日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動216〕
^ 多喜二の「沼尻村」上演計画も弾圧『東京朝日新聞』昭和8年3月16日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p223 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

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