新発田市
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概要新潟県立新発田病院から望む新発田市街(2020年3月)

越後平野の北部に位置する新潟県の北部の中核都市。市北西部には日本海に面した白砂浜海岸が広がり、東部には飯豊山二王子岳などの山々がそびえ、街からその姿を望むことができる。またこの地では加治川などを水源とした水田が広がっており、県下有数の良質なコシヒカリ)の産地としても知られる。

新発田藩城下町として栄えた市街地は新発田城を代表とする歴史的建築物が多数あり、今も城下町当時の区割りや道、新発田川などの水路がかつての姿をとどめている。明治から戦前にかけては軍都として、戦後は県北部の商業都市として発展した。その昭和の頃の面影を色濃く残す旧公設鮮魚市場や各商店街といった建物や街並みも多く残り、風情ある街にもなっている。こうした歴史を背景に、新発田の市民は2004年平成16年)の新発田城三階櫓・辰巳櫓の復元をはじめとする街の景観保存維持に対する関心が非常に高く、市民自ら熱心に取り組んでいる。

市章には新発田藩主・溝口家の家紋「溝口菱」(掻摺菱、五階菱とも)をそのまま用いている。

新潟市への通勤率は16.6%(平成22年国勢調査)。
地理城下町の市街地を流れる新発田川

山: 大日岳、北股岳、二王子岳、大峰山(櫛形山脈)、焼峰山

河川: 加治川落堀川新発田川、中田川

湖沼: 升潟

気候

市全域が国から豪雪地帯の指定を受けるが、特別豪雪地帯には指定されていない。県の観測によれば、市街地の新栄町における年累計降雪量および最深積雪の1994-2019年度の平均値はそれぞれ244 cm、48 cmであり、新潟市中央区美咲町の131 cm、30 cmと比べてやや多い[1]。一方、山間部の赤谷では最深積雪が2 mを超える年もある[2]

赤谷(1991年 - 2020年)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
降水量 mm (inch)384.8
(15.15)261.3
(10.287)223.3
(8.791)175.7
(6.917)149.0
(5.866)192.7
(7.587)345.1
(13.587)250.5
(9.862)202.7
(7.98)240.0
(9.449)376.4
(14.819)450.6
(17.74)3,252
(128.031)
平均降水日数 (?1.0 mm)26.021.520.814.812.912.615.712.714.316.320.224.8212.6
出典1:Japan Meteorological Agency
出典2:気象庁[3]

隣接している自治体・行政区
新潟県


新潟市北区

阿賀野市

胎内市

北蒲原郡聖籠町

東蒲原郡阿賀町

福島県


喜多方市

飯豊山の稜線の登山道が福島県喜多方市となっているため。


山形県


西置賜郡小国町

地域・市街地構成「新発田駅#駅周辺」も参照

市域は中心となる本庁地区に、戦後に編入した旧自治体をベースとする11の地区を加えた計12の地区から成る[4]。また、都市計画マスタープランではこれと異なる10の地域設定が行われている[5]

本庁地区の中心街は、新発田駅前から西へ伸びる道路沿いに1km以上に渡って片持ちアーケードが設置されており、この通りが事実上メインストリートとなっている。かつてはこの通り沿いに百貨店・大型商業施設が複数存在していたが、1990年代頃に閉店・郊外移転が相次ぎ、空洞化が進行している。一方で新新バイパスから続く新発田バイパス新発田南バイパス沿いには郊外型商業施設の出店が相次ぎ[6]2005年(平成17年)オープンのイオンモール新発田が代表的である。こうした開発に合わせて市街地も大きく広がり(DID面積は1980年(昭和55年)5.50km2→2010年(平成22年)9.49km2[7])、これらのバイパスの内側では2010年代に入ってからも宅地開発が続いている[8]

こうしたドーナツ化現象への対策として様々な取り組みが行われており[9]、2006年11月には県立新発田病院が駅前の大倉製糸新発田工場跡に移転され、2016年には図書館を核とする駅前複合施設「イクネスしばた」、2017年にはオープンスペースを有する市役所新庁舎「ヨリネスしばた」が相次いで開設された。なお、市役所は従来北側の旧武家地に位置していたものを旧町人地(現在のメインストリート)に移した形である。

新発田駅前から1 km以上続くアーケード

新発田南バイパス沿いのロードサイド店舗

歴史新発田城二の丸隅櫓(国の重要文化財

阿賀野川信濃川の流域に拓けたこの地域は、中世には佐々木氏の傍系・新発田氏が領し、この地を流れる新発田川の流域にその水運を生かして城が築かれた。

慶長3年(1598年)、豊臣家の家臣であった溝口秀勝が6万石の所領を得てこの地に移封され、以後幕末まで新発田藩溝口氏が治め、新発田城城下町として発展していくことになる[10][11]。城下では武家町・町人町・寺町などの特徴的な町が形成され、また周辺地域では新田開発によって低湿地の耕地化が進められた。

明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県で新発田県が設置されたが、まもなく新潟県に編入。1878年明治11年)の郡区町村編制法で阿賀野川以北の地域(阿賀北地域)一帯が北蒲原郡とされると、その郡役所が新発田本村に置かれ、新発田は阿賀北地域の中心地として発展していった。1873年(明治6年)に廃城となった新発田城の跡地には陸軍歩兵第16連隊が置かれ、以降、明治から終戦までこの町は軍隊の町としての性格を強めた(これは戦後も陸上自衛隊新発田駐屯地として残り、現在に至っている。)。

市制が施行され「新発田市」となったのは、第2次世界大戦後、1947年昭和22年)のことである。
市名の由来

「新発田」の由来には諸説ある。

荒地を開墾してできた新田「新開発田」の転訛とする説
[12]。なお、この説の補強論・背景として、江戸時代中期には紫雲寺潟新田が開発されるなど、穀倉地帯として発展した北陸東北地方の歴史があるためである。

潟湖に接する「州端(すばた)」を由来とする説[12]


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