新田氏
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頼朝が鎌倉を本拠にすると一族の中には、甥・足利義兼や、子である山名義範、孫の里見義成など、参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。その参陣の遅さから、頼朝の勘気を被ったと伝えられている(『吾妻鏡』)。

1221年承久の乱にも惣領は参陣せず、代官として庶家世良田氏が参陣している。これらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。また、早期に頼朝の下に参陣した山名氏里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。その後も新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏・額戸氏岩松氏などの創立による分割相続や、所領の沽却により弱体化する。特に足利氏を父系とする岩松氏の創立により、本宗家の所領は小さいものとなった。さらに脇屋・細谷・荒井・大館・堀口らも分立し、弱体化は進む。

4代の新田政義は、京都大番役での上京中に幕府に無断で出家した罪で、御家人役を剥奪される。新田氏惣領職は没収され、一族の実力者である世良田頼氏に与えられ、また世良田氏と共に岩松氏も分担する。この時、新田氏本宗家の所領は得宗家にも渡り、得宗勢力被官が荘内に進出する。

その後、頼氏が北条氏内の得宗家と反得宗家の争いである二月騒動に連座して佐渡島に流罪となると、惣領職は新田氏本宗家に復するものの、幕府における新田氏本宗家の地位は非常に低いものとなり、以後は無位無官に甘んずることとなる。そのため新田氏本宗家は、鎌倉幕府の重鎮となっていた足利惣領家(北条家の有力庶家並みの家格となっていた)の庇護を受ける。2代の新田義兼は娘を足利義純に嫁がせ、4代の新田政義は足利義氏の娘を妻として5代新田政氏を儲け、政氏の娘は足利家時に嫁いでいる。

政義失脚以降、新田氏本宗家の歴代当主は足利氏惣領の通字であった「氏」を名前に入れた。新田氏本宗家は足利氏惣領を烏帽子親として元服し、「氏」の偏諱を与えられたことで、擬制的親子関係という庇護下に入ったからと考えられている。足利氏惣領で「氏」を用いなかった足利高義の時代に元服したと見られる8代新田義貞の名に「氏」ではなく「義」の字が入っていることが、この事実を裏付けている。後に新田義貞が討幕の兵を挙げた時のことを「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」(『神皇正統記』)・「尊氏の末の一族新田小四郎義貞といふ物」(『増鏡』)と記しているのは、実は婚姻関係と烏帽子親を通じた擬制的親子関係の結果、足利氏庶流と化していた新田氏本宗家の実態を的確に表したものであったといえる(この傾向は里見氏や世良田氏などの新田氏一族にもみられる)[8]。ただしこうした見解に対して、鎌倉期――新田義重の段階で既に足利氏一門として扱われており、新田氏は成立当初より一貫して足利氏を宗家としており、『太平記』以外の同時代史料はその点ではほぼ一致している。「新田氏流」「新田氏一門」という概念自体が『太平記』の影響を受けて後世に創作された概念に過ぎない、という批判も出されている[9][10]

その一方で、義貞(里見家家譜によると里見家から新田惣領家への養子)の時代には長楽寺再建事業を通じて、同寺の門前町で当時の地域を代表する経済都市であった世良田宿を本宗家が掌握し、後の本宗家主導の討幕運動参加の基礎が築かれることになった[11]

鎌倉時代後期には、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、源義国流の同族にして北条氏と重代の姻戚の最有力御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の足利義詮)を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させる。
南北朝時代・室町時代

当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、後に政権内部の政争により、義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って反足利氏派・反武家派の首班として尊氏(高氏改め)と対立した。新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った湊川の戦いで敗戦。比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。しかし越前国金ヶ崎城で足利方の斯波高経高師泰らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死する。

義貞の戦死後、三男新田義宗が家督を継いだ。足利家の内乱である観応の擾乱に乗じて異母兄の新田義興と共に各地を転戦、一時は義興が鎌倉の奪還を果たすが巻き返され、足利基氏畠山国清らによって武蔵国矢口渡で謀殺されると劣勢は増すばかりとなった。義詮、基氏が相次いで没すると、義宗は越後から脇屋義治とともに挙兵するが、上野国沼田で関東管領上杉憲顕配下の軍に敗れて戦死し、新田氏本宗家は事実上滅亡した。その後も、義宗の子とする新田貞方とその子貞邦や、義宗の子とも伝わる脇屋義則などが抵抗を続けるが、鎌倉公方の軍に破れ新田氏の抵抗は収束していった。

一方、北朝方についた新田一族の岩松氏に上野国新田荘が与えられ、義宗の落胤を称した岩松満純[注釈 4]が入嗣する。

室町幕府には支族である大館氏・大井田氏などが出仕し幕府高官となった。また、三河守護には大島義高が補任された[12]。また、越後に残ったものは次第に守護上杉家の家臣に組み込まれていった。

山名氏山陰地方の国々を守護領国化し京都においても侍所の長官に任じられる四家の内の一つとして繁栄した。


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