新潟空港
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年間乗降客数は1969年が3.9万人だったが、1970年には7.3万人に急増、オイルショックなどにより高度経済成長期が終焉してもジェット化により路線開設が続き、1981年まで増加した[2]。同年の年間乗降客数上位は、羽田線(20.4万人)、大阪線(14.9万人)、千歳線(11.4万人)、名古屋線(11.0万人)、仙台線(5.0万人)、福岡線(4.2万人)[2]。しかし、1982年11月の上越新幹線開業により、1983年9月に羽田線が休止に追い込まれ、当空港の年間乗降客数は40万人前後にまで落ち込んだ[2]。乗降客数の低迷から福岡線も休止となるが、空港全体の乗降客数は1986年から増加し始めた[2]。その後、仙台線が休止される一方で福岡線が復活し、那覇線も新設。年間乗降客数100万人前後の空港になった。

2013年度(平成25年度)の年間利用客数は、国内86万3170人、国際15万3601人で合計101万6771人であった。100万人超を達成したのは、リーマン・ショックが発生した2008年度(平成20年度)以来5年ぶりである[G 5]。その後は100万人/年度前後で横這い傾向が続いている。
歴史新潟市営時代の飛行場航空写真(1946年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
年表

1929年昭和4年)

本州日本海側で初となる万代飛行場が、信濃川下流にある中州万代島(現・中央区万代島。現在、中州は埋め立てにより陸続きとなっている)に開港[注釈 2]

焼島(現・東区榎町、北越コーポレーション新潟工場付近)に沼垂飛行場が開港[N 1]


1930年(昭和5年) : 北蒲原郡松ヶ崎浜村へ移転し、新潟市営飛行場として開港。

1941年(昭和16年) : 日本陸軍の徴用飛行場となる。

1945年(昭和20年) : 太平洋戦争終結により、連合国軍の1国であるアメリカ軍軍用飛行場として接収する。

1950年(昭和25年) : A滑走路1,829mの供用開始。

1954年(昭和29年)4月5日 : 松ヶ崎浜村が新潟市に編入合併されたため、当空港が同市内となった。

1958年(昭和33年)

3月31日 : 連合国軍より新潟飛行場が返還される。

初の定期路線、新潟 - 東京間が開設される(使用機材はDC-3)。


1962年(昭和37年)3月15日 : 航空自衛隊の新潟基地隊が新編される。

1963年(昭和38年) : A滑走路1,314mに短縮、B滑走路1,200m新設。

1964年(昭和39年)6月16日 : 新潟地震で被災。液状化現象津波により滑走路が浸水するなど被害が出る[注釈 3]

1966年(昭和41年)12月 : 航空自衛隊新潟基地隊が航空救難群に編入される[G 6]

1967年(昭和42年)10月25日 : 新潟基地隊が新潟救難隊へと新編される。

1972年(昭和47年)

B滑走路1,900mに延長。

10月27日 : 空港ターミナルビル(2代目)の改築が完了し、供用を開始。


1973年(昭和48年)

6月15日 : 初の国際定期航空路となるハバロフスク線を開設[G 7][G 8](使用機材はB727)。同日にジェット化もされた[3]


1979年(昭和54年)12月 : 国際定期航空路・ソウル線を開設[G 7]

1981年(昭和56年) : B滑走路2,000mに延長。

1991年平成3年)6月 : 国際定期航空路・イルクーツク線を開設[G 7]

1993年(平成5年)4月 : 国際定期航空路・ウラジオストク線を開設[G 7]

1996年(平成8年)

3月28日 : B滑走路2,500mに延長して供用を開始[G 9]

7月11日 : ターミナルビル(3代目、現在供用中)の改築が完了してグランドオープン[G 9]


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