新潟県は、かつて人口が日本で最も多い道府県であった(東京都は1943年以前まで東京府だった)。本県の範囲がおおむね現在と等しくなった1874年(明治7年)から1896年(明治29年)までの23年間にわたって、本県の人口は統計上約140万人から170万人で推移し、そのうち8年間を除いた15年間において全国の道府県で最多の住民を擁した[21][22]。
具体的には、1874年に新潟県(当時の管轄は下越のみ)が柏崎県(管轄は上越・中越)を併合して、越後国のほぼ全域を管轄したのち、さらに1876年に相川県(佐渡島の全域)を併合した。この3年間において本県は人口が最多であった[22]。 ただし、翌1877年(明治10年)から1881年までの5年間にかけては、石川県が富山県の全域および福井県の嶺北地方を併合した「大石川県」となっていた[注釈 4] ため、1位の座は石川県に譲った[22]。 その後、石川県から福井県・富山県が相次いで独立し[注釈 5]、石川県の人口が小さくなったことで、1882年(明治15年)から1883年(明治16年)にかけて新潟県が最多となった[22]。 ただ、翌1884年(明治17年)から1886年(明治19年)までの3年間には、大阪府が奈良県の全域を併合していた[注釈 6] ため、1位は大阪府に譲った[22]。なお、この1886年に東蒲原郡(現在の阿賀町)が福島県から新潟県へと移管されたことで、本県の範囲は現在と等しくなった。 その後、大阪府から奈良県が独立し、大阪府の人口が小さくなったことで、1887年(明治20年)から1896年に至るまでの連続10年間は新潟県が最多を守った[22]。 しかし、1897年(明治30年)には東京府(現在の東京都)の人口が最多となり、以後は本県の人口が最多となることはなかった[22]。「過去の都道府県の人口一覧#国勢調査以前の過去の都道府県別人口」も参照 近代以前の日本は都市化が進んでおらず、国民の9割近くが農業によって生活を成り立たせていた。そのため、稲作に適した広大な越後平野を擁し収穫高が大きい新潟県は、人口涵養能力が高かった[23]。 さらに19世紀以前の輸送手段は海運が主流であり、とくに本県が接する日本海を航行する北前船は、太平洋よりも安全かつ安価な航行が可能であった。
石川県に最多を譲ったのち復帰
大阪府に最多を譲ったのち復帰
東京府に最多を譲る
人口が多かった要因
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