新潟県民歌
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作詞・高下玉衛(名義上)[1]、作曲・明本京静、編曲・平川英夫。

日本コロムビアから藤山一郎と前島節子の歌唱により発売されたSPレコードでは「新民謡 新潟県民歌」との表題も見られる。同じレコードのB面には、作詞・関根ふみと、作曲・江口夜詩、編曲・平川英夫の「越佐小唄」(えつさこうた)が小唄勝太郎の歌唱で収録されている。
解説

「新民謡 新潟縣民歌」
(A面)
藤山一郎、前島節子 /
(B面)小唄勝太郎シングル
B面越佐小唄
リリース1948年
規格SPレコード
ジャンル都道府県民歌
レーベル日本コロムビア(A568)
作詞・作曲A面‥作詞:高下玉衛、作曲:明本京静、編曲:平川英夫
B面‥作詞:関根ふみと、作曲:江口夜詩、編曲:平川英夫

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1947年(昭和22年)に民選の初代知事となった岡田正平が県民歌の制定を提唱し[2]、全国を対象に歌詞の公募を実施した。作曲は県の依頼により明本京静が行い、1948年3月28日新潟第一師範学校講堂で発表会が開催された。

制定の意義は「文化の香り高き郷土建設の為、県民が愛踊し得る曲」とされており[2]、いわゆる「復興県民歌」の一つに数えられる。日本海に面した風土と弥彦山妙高山佐渡島など県内の名所が歌われているのみならず1番では民主主義、2番では自由主義、4番では日本国憲法が掲げる理想の実現を目指す意思が歌われている点に大きな特徴がある。

本曲の作成には県が強く関与しているが長らく正式な県民歌としては取り扱われなかったらしく、1960年代の資料では県歌を「未制定」として本曲を事実上の県民歌とする旨の注釈付きで紹介するものが見られる[3]

制定から半世紀近くを経た2005年平成17年)の県調査では「歌ったことがある」が18%に過ぎず「あることさえ知らない」と言う回答が46%にものぼったが[4]2009年平成21年)開催のトキめき新潟国体開会式で演奏されたのを始め、県の行事では折に触れて演奏される場合がある。

2024年令和6年)からプロ野球イースタン・リーグ二軍限定で参加しているオイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブでは、BCリーグ所属時からホームゲームの試合開始前に選手が県民歌の斉唱を行っている。
カバー

1981年(昭和56年)に県のPR活動の一環として組曲新潟の讃歌(うた)』が作成されたことに合わせ、新潟音響が「新潟県民歌」のカバー盤(規格品番:NR-1017)を製造した。このカバー盤ではA面に新潟フィルハーモニー合唱団による斉唱をステレオで新録し、B面に新潟県警察音楽隊が演奏する行進曲アレンジが収録されている[5]
作詞者「新潟県民歌」のレリーフが欄干に設置されている千歳大橋(新潟市中央区)

新潟県が主催した一般公募の入選者は福岡県糟屋郡新宮町から応募した高下 玉衛(たかした たまえ、1913年 - 2011年)とされているが[6]、高下は生前に「ビルマから当時引き上げて来たばかりで、とても作詞どころではなかった」と述べており[7]新潟県庁職員の聞き取りに対しては実作者が別に存在することを示唆していた[8]

高下の没後、2020年(令和2年)に当事者の遺族らが新潟日報の取材に応じ、新宮町に隣接する糟屋郡古賀町(現在の古賀市)出身で高下とは相婿(妻同士が実姉妹)の関係に当たる渋田 喜久雄(しぶた きくお、1902年 - 1978年)が応募に際して高下の名義を借りた実作者の可能性が高いことが報じられている[1]。また、県民歌と同時に募集された越佐小唄でも同住所かつ「高下玉衛」名義の人物が佳作となっていた[6]

新潟県民歌の前年に制定された愛媛県新居浜市歌は作詞者の名義が花田 豊(はなだ ゆたか)とされているが[1]、新潟県民歌と歌詞が酷似していることと新居浜市立別子銅山記念図書館に所蔵された楽譜に記載された住所が同じ古賀町であることから、渋田のペンネームである可能性が高いとみられている[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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