新潟日赤センター爆破未遂事件
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1959年9月末、ソウル江北区牛耳洞の訓練所で「破壊班」「説得班」「要人拉致班」に分かれて訓練が行われた[23]

1959年12月初旬、潜入アジトを設けるために先発隊が慶尚北道慶州市甘浦港から船員に偽装して貿易船に乗り込み、ボートに乗り換えて小倉と関東で活動する部隊ごとに海岸から上陸した[24]。工作事件の舞台となる新潟県に隣接する富山県にはテロ部隊の本部がおかれた[4]

韓国工作員のテロ計画慶尚北道工作員の出発した甘浦港のある慶州市

在日朝鮮人帰国事業担当の日本側要員の暗殺[21]

日本赤十字社の破壊[21]

新潟港に通じる鉄道線路を破壊[21]

韓国民団にKCIAの工作員を偽装入会させ、日本側の警戒を受けずに政財界へ浸透する。

新潟日赤センター爆破計画発覚

1959年
12月4日警視庁外事課は新潟県新発田市内のバーで密談を行っていた工作員2名に任意同行を求め、新発田警察署で取り調べを行った。工作員の鞄の中からは雷管を装填した4本組のダイナマイト3束の計12本が発見され、爆発物取締罰則違反の現行犯で逮捕された。さらに、新潟駅では工作員が駅に預けたガソリン1L缶4本を隠したウィスキー箱が発見され、工作員たちは新潟日赤センターを爆破しようとしていたことが判明した[25][26][27][28]。また、この工作事件は韓国代表部(領事館)の金永煥三等書記官と来日中の韓国特務機関の幹部が指揮をとっていたことも明らかにされた[22]。この時逮捕された工作員は、日本国籍を取得した在日韓国人と在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した韓国治安局所属の在日朝鮮人である[4][22]。日本国籍を取得している在日韓国人は事件前には、新聞記者と称して日本赤十字社本部の周辺に入り浸っており、日本赤十字社からは出入り禁止とされていた[4]。事件発覚後、警察は次々と韓国の工作員を摘発した。この爆破未遂事件は日本社会に衝撃を与え、韓国政府や在日大韓民国居留民団に対しての日本世論が硬化した[29]

1959年12月7日には釜山港から神戸港に上陸しようとしていた工作員を載せた大栄号が関門海峡海上保安官に臨検されて強制停泊させられた後に、韓国に引き返している[30]

1959年12月12日には巨済島を出発した韓国工作員を載せた明星号が下関近海で暴風に遭い沈没し12名が死亡[21][31]

1959年12月13日、12月12日に明星号と同じく巨済島を出航した工作船が広島県呉港から工作員を潜入させる[21]

1959年12月下旬には在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した後、再び日本に渡航して大阪府に住んでいた男性のもとに、韓国に帰還したままであった在日義勇兵の友人が8人の男を引き連れて現れると、そのまま居候するようになり、夜にはラジオで韓国から送られてくる暗号を受信するなどして工作活動を開始した[9]。追って、工作資金2000ドルも送付されてきた[9]

1960年4月19日四月革命が起こり、李承晩大統領が失脚すると工作活動は下火となった。

1960年5月3日山口県下関彦島江ノ浦桟橋から鮮魚運搬船で韓国に密出国しようとしていた韓国工作員24名が逮捕された[32][33][34][21]。工作員たちは先に神戸長崎、下関付近から密入国していた[33][34]

1960年5月10日、警視庁外事課が韓国工作員を出入国管理法違反で逮捕。工作員は李承晩大統領直属の景武台機関出身で在日同胞の北朝鮮帰国阻止決死隊の隊員だった。工作員は日赤センターや船や列車を破壊する任務を与えられていた[33][34]

事件後
衆議院法務委員会

1959年12月8日衆議院法務委員会にて社会党猪俣浩三代議士は自身が事件発覚前に新潟日赤センター爆破計画と事件実行犯である工作員が新潟に入るとの情報を帰還促進団体からすでに受けていたことを明らかにした[4]。また、猪俣は安斗煕、張斗権、韓九、柳日熙、李周浩ら韓国軍の特務機関員が日本に潜入しており、韓国代表部(領事館)の金永煥が用意した韓国銀行あての小切手800万円が韓国人を介して12月4日午後二時半、韓国料理店で安斗熙らに渡されたとの情報を明らかにした[4]。その際、金九(元大韓民国臨時政府主席)暗殺実行犯の安斗熙が姜斗熙という偽名でアメリカ空軍立川基地を経由して潜入したとしている[4]


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