新法・旧法の争い
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脚注[脚注の使い方]^ 歳は1年毎、幣は対等の国に対して賜は臣下に対してという意味である
^ なお遼と西夏に対する歳幣・歳賜の額はそれぞれ絹30万匹・銀20万両、絹13万匹・銀5万両・茶2万斤であるが、これは軍の維持費に比べればごく小額である。
^ 『山川出版社 詳説世界史B』2017年3月5日発行 161ページ
^ 井上論文、2009年。なお、井上は同論文において「銭荒」は国家財政の赤字から生じた誤った認識で、実際の宋の民間経済は物価上昇を引き起こすほどの銅銭の供給過剰であったとする見解に立っている。
^ 小林隆道「北宋期における路の行政化」(初出:『東洋学報』第86巻第1号(2004年)/所収:小林『宋代中国の統治と文書』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6013-0
^ 金成奎『宋代の西北問題と異民族政策』汲古書院、2000年2月28日。 
^ これらは出身地による派閥であるが、旧法党だけではなく新法対旧法の争いもまた出身地による部分があった。王安石は撫州(江西)、呂恵卿は泉州(福建)と新法党の人間の大半は江南出身であり、新法・旧法の争いは宋創立以来権力を握ってきた華北出身の士大夫に対して経済力で圧倒する江南出身の士大夫たちが権力を奪おうとする過程であると見るむきもある。また学派の争いと言う側面としては、王安石・王?親子の新学、蘇軾・蘇轍兄弟の蜀学、そして後に朱熹を生み出し、儒学の本流となった程・程頤兄弟の洛学(後に道学と呼ばれる)である。
^ 横山博俊 『北宋哲宗朝の政治文化と人脈 ―「編類章疏」と「看詳訴理」を事例として―』人文研究 大阪市立大学大学院文学研究科紀要 第66巻 2015年 3月 49頁?66頁
^ 小林隆道「宋代転運使の〈模範〉」『宋代中国の統治と文書』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6013-0
^ 既に徽宗は成人しているにもかかわらず、向太后が垂簾政治が行ったことは内外から批判を招いた。藤本猛は曾布が宰相に任じられた時には向太后は既に政務の実際から隠退していたことから、両党融和策は徽宗自身による案であったものの、政権の不安定さから見切りをつけて蔡京登用に至ったとする。
^ 藤本猛は徽宗と蔡京は芸術的にはシンパシーを感じていたものの、蔡京の「専制宰相」化は徽宗にとっては想定外の事態であり、両者は政治的には互いに主導権を巡って争っていたとする。やがて、徽宗から即位以前より寵愛されていた蔡京の長男・蔡攸が徽宗につくことを選択したことで、徽宗は蔡京の政治的実権を剥奪して蔡攸ら側近の協力を得て親政を行い、「専制君主」化したのが徽宗治世後期の政治情勢であったと説く。
^ 『宋史紀事本末』「蔡京事迹」政和6年4月庚寅条。蔡京は依然として最高権力者であったものの、高齢の為に3日に1度の出仕で許される待遇を与えられたために却って日々の政務の動きからは切り離される事になって徐々に政治的実権を奪われる事になり、代わって徽宗が政務の主導権を握ることになった。
^ 蔡攸は徽宗の即位以前から徽宗と親交があり、徽宗と蔡京の政治的対立が深まると徽宗につくことを選択した。鄭居中・劉正夫は以前は失脚した蔡京の復帰に尽力した側近であったが、後に蔡京と対立し、更に徽宗の意を汲んで蔡京が進めた封禅実施計画を中止に追い込んだことで徽宗の信任を得ていた。
^ この時期に起きた反乱の一つが有名な『水滸伝』のモデルとなっている。

年譜

以下の表では、青色部分は新法党が主導権を握った時期、赤色部分は旧法党が主導権を握った時期、黄色部分は両者の融和が試みられた時期である。

神宗1067年
(治平4)1月、英宗没。神宗即位。
九月、王安石、翰林学士に抜擢。
1069年
(熙寧2)2月、王安石、参知政事(副宰相)に。制置三司條例司を設立。改革に着手。
7月、均輸法施行。
9月、青苗法施行。
11月、農田水利法施行(淤田法施行)。
1070年3月、科挙改革に着手。
5月、制置三司條例司を廃止。
12月、保甲法施行。王安石同中書門下平章事(宰相)に。
1071年10月、募役法施行
1072年3月、市易法施行。
4月、司馬光、洛陽に移る。
5月、保馬法施行
8月、方田均税法施行。
1074年4月、王安石、宰相辞任。知江寧府に転出。
1075年8月、王安石、再び宰相に。
1076年10月、王安石、再び知江寧府に転出。
1080年
(元豊3)6月、元豊の改革開始。5年(1082年)5月に完成。
哲宗1085年3月、神宗没。哲宗即位。宣仁太后が摂政を始め、旧法党の時代に(元祐更化)。
5月、司馬光が尚書僕射門下侍郎(宰相)となる。
7月、保甲法廃止。
8月、市易法廃止。
10月、方田均税法廃止。
1086年
(元祐元)1月、募役法廃止。
2月、司馬光、尚書僕射(宰相)に。
4月、王安石死去。
8月、青苗法廃止。
9月、司馬光死去。
1093年9月、宣仁太后、死去。哲宗の親政始まり、新法党の時代に。
1094年
(紹聖元)2月、新法を復活。
徽宗1100年
(元符3)1月、哲宗没。徽宗即位。向皇太后の摂政。
7月、新法・旧法両党から登用し、融和を試みる。
1101年
(建中靖国元)1月、向皇太后、死去。
1102年
(崇寧元)5月、蔡京、宰相に。
9月、司馬光ら旧法党119人を姦党と名づけ、元祐党籍碑を建てる。
後に309人に増え、地方に同じものを作らせる。
1106年1月、党籍碑を壊し、旧法党に対する弾圧が緩められる。
3月、蔡京、宰相辞任。
1107年
(大観元)1月、蔡京、宰相に復帰。
1116年
(政和6)4月、封禅実施を巡って徽宗と対立した蔡京が上表を出すが慰留される。
政治の主導権が蔡京から徽宗へと移る。
1126年
(靖康元)閏11月、により開封占領(靖康の変)、北宋滅ぶ。

参考文献

『世界歴史大系 中国史3 五代?元』(松丸道雄
他、山川出版社 1997年 ISBN 4634461706

『五代と宋の興亡』(周藤吉之中島敏、講談社学術文庫 2004年 ISBN 4061596799

『中国の歴史07・中国思想と宗教の奔流』(小島毅講談社 2005年 ISBN 4062740575

『宋学の形成と展開』(小島毅、創文社 1999年 ISBN 442319404X

『中国歴史人物撰第6巻・司馬光とその時代』(木田知生、白帝社 1994年 ISBN 4891742305

『中国の人と思想7・王安石』(三浦國雄集英社 1985年 ISBN 4081850070

『宋代の知識人』(宋代史研究会、汲古書院1993年 ISBN 4762924571

『王安石新法の研究』(東一夫、風間書房、1970年

『宋代税制史研究』(島居一康、汲古書院、1993年

『宋銭の世界』(伊原弘編、勉誠出版、2009年 ISBN 458503210X)所収、井上正夫「国際通貨としての宋銭」

『風流天子と「君主独裁制」?北宋徽宗朝政治史の研究』(藤本猛、京都大学学術出版会2014年 ISBN 9784876984749


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