新明解国語辞典
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三省堂は「日本で一番売れている国語辞典」としている[8]
概要

1972年(昭和47年)1月24日に初版が刊行された[注 1]言葉の持つイメージに踏み込み、ときに裏の意味まで明らかにしようとする、充実した語釈や用例に定評のある小型国語辞典。初版から編輯の主幹を務める山田忠雄のもと、独創的かつ高度な内容で高い評価を獲得した。芥川賞作家の赤瀬川原平が発表した随筆『新解さんの謎』がベストセラーとなったことから[11]、「新解さん」の愛称でも呼ばれる[12]。前身の『明解国語辞典』を含めた各版合計の累計発行部数は2200万部に上る[13][14]。また「新明解」はブランド名となっており[注 2]、三省堂の複数の辞書や学習参考書にも用いられている[16][17]
沿革
成立

母体となった『明解国語辞典』(明国[18])は、のちに『三省堂国語辞典』(三国[19])の主幹となる見坊豪紀が中心となって編纂された辞書である[20]。見出し語の収集・整理と執筆は見坊がほぼ独力で行い、山田は原稿の段階から校閲・助言の任に当たり、金田一春彦に依頼してアクセント表記を加えた[20]。見出しを表音式かなづかいとし、口語体で簡潔な語釈につとめた「明国」は、1943年という戦時中の物資不足のなかで発売され、コンパクトながら引きやすく分かりやすい実用的な辞書として広く受け入れられた[21][22]

戦後の改訂版(1952年)を挟んで[23]、上述の三人による協力体制で改訂作業が続けられていた「明国」だったが(途中から柴田武が加わる)[24]1960年に「三国」が刊行された頃から[25]、見坊は徹底的な用例採集の必要性を痛感し[25]、それに多くの時間を割くようになり、「明国」の改訂作業が滞りがちになっていった。そこで、三省堂は「明国」改訂版の取りまとめを、山田に一任することとした[26]

こうして山田の主導のもと、1972年に完成された改訂版が、『新明解国語辞典』(新明国)である[26]。山田は、改訂作業をほとんど独断で行い[27]、さらには序文において、基礎作業に多大な時間を費やす見坊を「事故有り」と表現し、自分はやむなく主幹を継承し、内容の刷新に踏み切ったという態度をとった[28]。これにより両者は袂を分かち、以降見坊は「三国」、山田は「新明国」の代表として、それぞれの辞書づくりを進めていくことになった[29]
ユニークな語釈とその反響

山田は国語学者として主に古典分野で確固たる地位を築いていた一方で、辞書史研究をライフワークのように継続していた[30][31]。その中で山田は、堂々巡りの語釈[注 3]や既存の辞書の引き写し(盗用・剽窃)のような語釈[注 4]という、それまでの国語辞典が陥っていた問題点に気づき[注 5]、これらを徹底して排除する必要性を痛感していた[31][35]。その解決手段として、文章で語の内容を詳しく説明する方針によって、類義語を示すだけの語釈を避け、他社に模倣をためらわせる高い独自性のある語釈を構想するようになった[35]。それが結果的に言葉や物事に対する独特の視点による文明批判に及ぶことになった[36]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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