新明解国語辞典
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また「新明解」はブランド名となっており[注 2]、三省堂の複数の辞書や学習参考書にも用いられている[16][17]
沿革
成立

母体となった『明解国語辞典』(明国[18])は、のちに『三省堂国語辞典』(三国[19])の主幹となる見坊豪紀が中心となって編纂された辞書である[20]。見出し語の収集・整理と執筆は見坊がほぼ独力で行い、山田は原稿の段階から校閲・助言の任に当たり、金田一春彦に依頼してアクセント表記を加えた[20]。見出しを表音式かなづかいとし、口語体で簡潔な語釈につとめた「明国」は、1943年という戦時中の物資不足のなかで発売され、コンパクトながら引きやすく分かりやすい実用的な辞書として広く受け入れられた[21][22]

戦後の改訂版(1952年)を挟んで[23]、上述の三人による協力体制で改訂作業が続けられていた「明国」だったが(途中から柴田武が加わる)[24]1960年に「三国」が刊行された頃から[25]、見坊は徹底的な用例採集の必要性を痛感し[25]、それに多くの時間を割くようになり、「明国」の改訂作業が滞りがちになっていった。そこで、三省堂は「明国」改訂版の取りまとめを、山田に一任することとした[26]

こうして山田の主導のもと、1972年に完成された改訂版が、『新明解国語辞典』(新明国)である[26]。山田は、改訂作業をほとんど独断で行い[27]、さらには序文において、基礎作業に多大な時間を費やす見坊を「事故有り」と表現し、自分はやむなく主幹を継承し、内容の刷新に踏み切ったという態度をとった[28]。これにより両者は袂を分かち、以降見坊は「三国」、山田は「新明国」の代表として、それぞれの辞書づくりを進めていくことになった[29]
ユニークな語釈とその反響

山田は国語学者として主に古典分野で確固たる地位を築いていた一方で、辞書史研究をライフワークのように継続していた[30][31]。その中で山田は、堂々巡りの語釈[注 3]や既存の辞書の引き写し(盗用・剽窃)のような語釈[注 4]という、それまでの国語辞典が陥っていた問題点に気づき[注 5]、これらを徹底して排除する必要性を痛感していた[31][35]。その解決手段として、文章で語の内容を詳しく説明する方針によって、類義語を示すだけの語釈を避け、他社に模倣をためらわせる高い独自性のある語釈を構想するようになった[35]。それが結果的に言葉や物事に対する独特の視点による文明批判に及ぶことになった[36]

「文章による語釈」を可能な限り徹底し[35]、かつ山田の独力でほぼ全体を執筆した「新明国」は[27]、刊行されてから間もなく各方面から批判があったが[注 6]、一部の語の記述において山田自身の意見や人生経験が色濃く反映されることがあり、呉智英武藤康史井上ひさしなどから、従来の国語辞典の概念を超える特殊な面白さが指摘されるまでになった。「読んで面白い辞書」としての反響は出版・文筆業界にとどまらず、既に1980年代前半(昭和50年代後半)に放送されたラジオ番組『大橋照子のラジオはアメリカン』には、「金田一先生の辞書」[注 7]としてリスナーによりネタにされ、番組を盛り上げるのに一役買っていた[41]。「新明国」の語釈を紹介するコーナーがあり[注 8]、同時期に出版されていた雑誌『ぴあ』の読者投稿欄でも同様の記事が掲載されていた[42]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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