新広西派
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しかし同時に両広の軍閥が日本の軍事物資の援助を受け入れたことを指摘している資料もあり、それを兵力増強に用いて、?介石に抵抗していた事は、日本の軍事物資の援助を受け入れることで両広の軍閥は日本と協定を結び、戦後中国の主権を自分達が握ろうとしていたとするものもある。

両広事変の中で、広東軍閥は陳済棠の部下の余漢謀などが?介石に買収され離反し、結果は失敗に終わった。さらに?介石が部隊に移動し、広西への進撃準備をしたため、新広西派は自警団の制度を利用し、20万の兵力を一斉動員した。しかし人民は両勢力の激突を望んでおらず、各方面の勢力の仲介で、新広西派は?介石が中華民国の指導者であることを認める事、さらに日中が軍事衝突した場合は出兵し、?介石への協力を約束、その見返りに?介石は新広西派の広西省統治を認める事で合意に達し、両広事変は解決した。
日中戦争時

1937年日中戦争が勃発。新広西派は部隊を直ちに北上する国民革命軍の第11集団軍、第21集団軍に合流させ、日中戦争に参戦した。新広西派は他にも上海での戦闘、淮河戦役に参加した。上海での戦闘中に、初めて近代的な日本の軍隊と戦ったため、新広西派の損失は非常に大きく、止む無く江蘇省北部まで後退し、部隊を休息させた。李宗仁は第5戦区の司令長官を担当し、淮河流域や、山東南部を担当した。後に、新広西派は部隊を江蘇省北部で淮河戦役に参加させたが、李宗仁は新広西派の兵力を温存してるとする史料もあり、主力はすべて第5戦区が管轄する江蘇、山東地方の軍隊と西北派の軍が行い、新広西派は日本軍と決して大規模戦闘を行わなかった。

日中戦争で李宗仁、白崇禧が参加した戦闘は徐州戦役武漢会戦随棗戦役桂南会戦豫湘桂戦役などがある。新広西派は第31軍を 台児荘会戦に参加して戦った。台児荘会戦中、李宗仁は前線の戦闘に自ら臨み、中央軍湯恩伯の軍団を指揮して南下させ日本軍を側面攻撃、台児荘会戦の国民革命軍の勝利に直接の貢献した。

新広西派部隊は長期にわたり安徽大別山区に駐留し、後方で遊撃を行い戦った。しかし桂軍は日中戦争の後期の立煌戦役の最中、日本軍に立煌(現在の安徽省六安市金寨県)に攻め入られて、損害を被ったりもしたが、桂南会戦中の桂軍と広西地方の自警団は一定の実力を発揮した。

1945年の豫湘桂戦役中、新広西派内部は部隊保持の戦略思想と、広西省に桂軍を十分駐留させていなかったため、日本軍の侵入に対しては有効な反撃をすることができなかった。日本軍は桂州と柳州を順に攻略するという計画を立てた。ところが、進撃開始後、第11軍は独断で桂州と柳州に同時侵攻し、方面軍の指導を無視して11月10日までに容易に双方を占領した[1]。日本軍は柳州付近での中国軍との決戦を想定していたが、中国側主力は戦闘を回避して後退していた。日本軍は補給線が伸びきり自動車用の燃料が不足したために、これ以上の追撃は不可能だった。この頃になると日本軍の食糧不足は深刻となり、小銃などの武器弾薬も不足し補充兵だけが送られてくる状況だった[2]
国共内戦以降

1945年の日中戦争勝利後、安徽省の新広西派駐留部隊と共産党の人民解放軍との間で戦闘が発生した。中国人民解放軍の第2野戦軍が「千里躍進大別山」作戦で進撃を行った後、国民政府の中央軍、雲南の?軍、広西の桂軍、広東の粤軍などの部隊は、解放軍と何度も戦った。解放軍は強力な中央軍や桂軍との戦闘を避け、脆弱な粤軍、?軍に攻撃を集中させ、国民政府の大別山地区進撃を何度も失敗させた。解放軍が勢力を増すに従い、中原の国民革命軍は次第に勢力を失い、新広西派は部隊を安徽省から撤退させた。

1947年、李宗仁は中華民国副総統となり、白崇禧は華中剿総司令官に任命され、30万近くの部隊を指揮した。

1948年冬、三大戦役(遼瀋戦役淮海戦役平津戦役)の後、?介石の中央軍は深刻な打撃を受け、新広西派は国民党内における最大勢力となった。李宗仁はこの機会に乗じて?介石の権力を弱め、中華民国総統代行の身分で共産党と交渉を展開した。だが、この時中国共産党はすでに長江以北の大部分を制圧し、百数万の兵力を武漢から上海長江北岸まで配備した上で総攻撃の準備をしていたため、まもなく交渉は決裂した。その後、中国人民解放軍は渡江戦役を開始し、国民政府の長江防御線は崩壊した。その半年後、江南地域は人民解放軍に占領された。

それでも、白崇禧の指揮が功を奏し、湖北、湖南での解放軍は、桂軍の主力を壊滅させる事は出来なかった。だが桂軍は国民軍の将校陳明仁が共産党に寝返った際、陳明仁の部隊に攻撃され、五万近くの損害を受けた。湘南の青樹坪も、解放軍第4野戦軍を闇雲に進撃させ、桂軍の主力軍に遭って包囲攻撃され、三千人の損害を受けた。
新広西派の滅亡

1949年10月、解放軍第4野戦軍は偶発的に戦機を捉え、衡宝戦役を始めた。この戦いは桂軍の主力部隊第7軍とその他の部隊の約五万人を敗北させ、白崇禧指揮の桂軍は広西に退却した。後に第4野戦軍は長距離追撃し、第2野戦軍、第1野戦軍と共同で雷州半島貴州などの桂軍を包囲した。 やがて広西省に進攻し、桂軍十数万の部隊を消滅させた。新広西派の要人達は衡宝戦役の後、以下のような道をたどった。首領の李宗仁は、今の状況に失望し、米国に亡命。白崇禧は中国人民解放軍が広西を占領する前に、台湾に脱出。黄紹рヘ中国国民党革命委員会に参加し、共産党の開催する中国人民政治協商会議に参加して、中国共産党に投降した。黄旭初は香港に向い、国民党でも共産党でもない「第三勢力」を組織して活動を行ったが、大した成果を挙げなかった。

新広西派の残党は、中華人民共和国政府の活動に抵抗し、その抵抗は1950年代中期まで続いたが、すべて失敗に終わった。その中、新広西派の北伐期に有名になった鍾祖培が、中華人民共和国に抵抗する暴動を起こし、恭城で抵抗した際、恭城に深刻な破壊をもたらした。暴動が中国人民解放軍に鎮圧された後、鍾祖培は銃殺刑の判決を下された。各地の抵抗の活動が次第に鎮圧されると、広西省はほぼ中華人民共和国政府の掌握下に入った。

中国人民解放軍が広西省を占領した後で、約五万の桂軍が東南アジアベトナムミャンマーなどに越境して脱出し、台湾の中華民国国民政府へ組み込まれた。
その後

李宗仁は長期にわたり米国に居留し、程思遠などの元で1965年7月18日に中国大陸に戻ったが、政治活動は参与せず、病気で1969年に逝去した。白崇禧は台湾中華民国国民政府へ移り、1966年12月2日に心臓病で死亡した。黄紹рヘ反右派闘争による迫害で1966年8月31日に自殺したが、その後中国国民党革命員会は1982年に中国政府により名誉回復がなされた。黄旭初は1975年11月19日に香港で病死した。
脚注^ 伊藤、346頁。
^ 中華民国(信陽、茶陵、零陵、桂林、柳州) < 地図から検索|NHK 戦争証言アーカイブス(2022年1月9日閲覧)











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