1974年5月、岡田茂東映社長は、天尾完次東映東京撮影所企画部長[22]との打ち合わせで実録路線に替わる新たな(映画の)素材を探し始めた[8][23][24][25][26][27]。「アメリカでヒットしているものは日本でもウケるから、常にアメリカの動向を観察していなければならない[2][23][28]」「洋画で流行っているものは、必ず邦画にもその流れが来るはずだ[26]」「世間をアッと言わせるような作品を早急に考えろ[24]」と、ブルース・リーを千葉真一に置き換えて作らせた「殺人拳シリーズ」などカラテ映画も業績好調と裏付けられていたため[26][29][30]企画部に新たな企画を出すよう指示[23][26][28][注釈 3]、「『大地震』や『タワーリング・インフェルノ』みたいなパニック映画をやってみろ!」と東映東京撮影所に社長命令を出した[1][2][8][24][26][28][31][32][33][34]。