新宿
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1991年丸の内からの東京都庁舎移転開庁などを経て今日見られるような超高層ビルが林立する大規模オフィス街に発展した。このため三大副都心の中では最もオフィスビルが集積している。

かつては「若者の街」「若者文化の流行の発信地」といえば新宿を指していたが[6]1973年渋谷パルコ出店を機にその座を渋谷区(つまり渋谷原宿表参道代官山裏原宿など)に奪われた[7]1990年代以降は、新たな鉄道駅(1996年西新宿駅2000年東新宿駅)の設置により、面的な新宿の街の広がりが進み、複合型の超高層ビルや超高層マンション、オフィスビルを中心とした再開発が進んでいる。2020年代以降は「新宿グランドターミナル」構想と呼ばれる大規模再開発が進行中である[8]
再開発計画

新宿は地区ごとに開発時期やコンセプトが異なるため機能や雰囲気が異なるエリアが継ぎ接ぎのように足されることによって拡大・発展してきた。そのため駅周辺の回遊性が乏しく、特に東西の移動は新宿駅によって大きく阻まれており、駅の動線は複雑で分かりにくいものとなっている[9]。それに対して東京都や新宿区、JR東日本などの鉄道事業者は2020年にJR新宿駅の東西自由通路を設置するなどして、回遊性の向上を図っている。将来的には「新宿グランドターミナル」計画を通して、さらなる回遊性の向上と新宿駅・駅ビル・駅前広場の一体的大規模再開発を目指している[10][11]。「新宿グランドターミナル」計画の一環として、西口の小田急百貨店と東口のルミネエストを高さ260mの超高層複合ビル(ツインタワー)に建て替え、線路上空に東西を結ぶ歩行者デッキを設置することが計画されている[12][13][14]。全体の計画としては完成は2040年代を予定しており、新宿駅周辺はこれから大きな変化を迎える。
地理

新宿は更新世に形成された武蔵野台地の東方に位置しており、新宿駅は淀橋台上にあり、標高は山の手で最も高く約44mであり、表層地盤も強い[15]。西端には神田川が流れ、江戸時代には神田上水が開削された。また、近代以降の都市化により都心部では同心円状のヒートアイランド現象が生じているが、新宿御苑新宿中央公園戸山公園などの大規模な公園の園内外ではクールアイランドもみられる[16]
歴史新宿における遊郭や赤線地帯の歴史については「新宿二丁目」、戦後形成された歓楽街については「歌舞伎町」、高層ビル街の歴史については「西新宿」もそれぞれ参照
古代から中世

新宿には、鎧神社(北新宿)や稲荷鬼王神社(歌舞伎町)など平将門伝承の地があり[17]1083年源義家後三年の役に際し建立した厳嶋神社(東新宿)などもみられるが、新宿周辺の地名が記録に残る最古の例は、1340年に江戸近江権守が足利義詮から預かった牛込である(牛込文書)[18][19]
江戸時代 - 宿場開設による発展
宿場開設以前花園神社
新宿総鎮守として、古来より街の守り神としてまつられている

1698年に、信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられたのが「新宿」の始まりであるが、新宿と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康江戸に入府する直前の1590年天正18年)7月にさかのぼる。三河時代より徳川家康の小姓として仕えていた内藤清成は、家康の入府に先立ち後北条氏残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた現在の新宿二丁目付近に陣を敷いた。

この功が認められ、清成は付近一帯を拝領し中屋敷(現在の新宿御苑、上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったとされる)を構えた。なお、清成が率いていた鉄砲隊は、1602年(慶長7年)に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、百人町の名のもととなっている。

この拝領に際しては、家康が「馬一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、清成は馬に乗り榎の大木を中心に東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ範囲を駆け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというエピソードがある。
「新宿」の誕生内藤新宿の復元模型


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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