新嘗祭
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これらの記述が史実をどの程度反映しているのかは明らかではないが、新嘗祭の儀式の中に弥生時代に起源を持つと考えられるものがあるため、その原型は弥生時代に遡るという説もある[6]

古事記雄略天皇の段の「天語歌」も当時の新嘗祭の様子を表していると言われている。大きな樹の下で新嘗の祭宴が行われ、采女が杯を大王にささげ「高光る日の御子やすみししわが大王(おおきみ)」と讃える様子が描かれている[7]

その後、律令により国家祭祀としての体裁を整えていった[注釈 7]。また、皇位継承儀礼に組み込まれ(大嘗祭を参照)、伊勢神宮の神事の形式を取り入れながら、宮中祭祀として続いてきた[8]

後花園天皇寛正4年(1463年)に行われて以降、応仁の乱や朝廷の窮乏により長らく中断していたが、東山天皇元禄元年(1688年)に霊元上皇の強い意向により「新嘗御祈」という形で略式に再興(この前年の貞享4年(1687年) に大嘗祭も再興)している。ただし祭場となる神嘉殿がないため、紫宸殿を代わりの場として用いた。ついで桜町天皇元文5年(1740年)に元の形に復興し、光格天皇寛政3年(1791年)には内裏の造営に伴って神嘉殿が再建された。その年以来、現在に至るまで毎年、宮中祭祀として続けられている[9]

明治5年(1872年)から、新嘗祭に合わせて神宮(伊勢神宮)に勅使が遣わされるようになった。

明治41年(1908年9月19日制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定。同法令は昭和22年(1947年5月2日に廃止されたが、以降もこれに則って新嘗祭が行われている。

平成25年(2013年12月23日宮内庁は当時の天皇誕生日(上皇明仁80歳誕生日)に際して初めて新嘗祭の様子の一部を映像で公開した[10]

新嘗祭まで新米を口にしない風習が古代からあったが、第二次世界大戦後に衰退した[11]
祭日

明治6年の改暦より以前は太陽太陰暦旧暦)の11月の二のの日(卯の日が2回しかない場合は下卯、3回ある場合は中卯とも呼ばれる、旧暦11月13日?24日のいづれかが該当する)に行われていた[注釈 8][注釈 9]改暦の年である明治6年(1873年)に、旧暦で実施すると翌年1月になってしまうため、グレゴリオ暦新暦)を採用することとなり、同年11月の二の卯の日にあたる11月23日に行われた。11月の二の卯の日は11月13日から11月24日の間で毎年変動するが、翌年以降も毎年11月23日に行われ、今日に至っている[1][注釈 10]

また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、明治6年(1873年)から昭和22年(1947年)まで同名の祭日休日)であった。昭和23年(1948年)公布の国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年法律第178号)[注釈 11]により、勤労感謝の日と改称されて国民の祝日となっている[2][13]。詳細は「勤労感謝の日」を参照

なお、固定日の休日の中で最も長く続いている休日である[注釈 12]
意義

新嘗祭の意義については、「天皇が新穀を神祇に供進し、収穫を感謝する」ことが本義であるという説、「天皇が大嘗を食す」ことが本義であるという説、「天皇が神前で新穀を食すことにより天照大神の霊威を身に受けて、それを更新すること」が本義であるという説などがある。

職員令』内に「大嘗」[注釈 13]の注釈として、謂う、新穀を嘗して以て神祇を祭るなり。朝は諸神の相嘗祭、夕は新穀を至尊に供するなり。

とある。また、『宮主秘事口伝』[注釈 14] には、大嘗会者、神膳之供進第一之大事也。秘事也。

とある。そのため、一般には「天皇が新穀を神祇に供進する、収穫感謝の祭り」と解釈されることが多い[15]

しかし、『延喜式』にみえる大嘗祭[注釈 13]祝詞には十一月(しもつき)中(なかの)卯(うの)日(ひ)尓(に)天(あま)都(つ)御食(みけ)乃(の)遠(とほ)御食(みけ)登(と)皇(すめ)御孫(みま)命(のみこと)乃(の)大嘗(おほにへ)聞食(きこしめさむ)爲(ための)故(ゆゑ)尓(に)、皇神等(すめがみたち)相(あひ)宇豆(うづ)乃比(のひ)[注釈 15]奉(たてまつり)?(て)…

とあり、皇御孫命(天皇)が大嘗を聞こしめす(食する)ことが新嘗祭の目的であることを鈴木重胤本居宣長が指摘している[16]

また、大嘗祭に際して発せられる「中臣寿詞」の中では、高天の原に神留ります皇親神ろぎ神ろみ命もちて八百万神等を神集へたまひて、皇孫の尊は高天の原に事始めて、豊葦原の瑞穂の国を安国と平けく知ろしめして、天つ日嗣の天つ高御座に御坐しまして、天つ御膳の長御膳の遠御膳と、千秋の五百秋に、瑞穂を平けく安らけく、斎庭に知ろしめせと、事依さしまつりて、天降しましし後に…

とあり、斎(ゆ)庭(にわ)の稲穂[注釈 16] をもって瑞穂の国を実現することの重要性、その祈りを込めて、それをきこしめす(食する)ことの意義を述べている[17][注釈 17]

また一説には、太陽の光を受けて成長した稲穂には皇祖神、太陽神であるところの天照大神の霊威がこもっており、ニニギノミコトの子孫である天皇(皇孫の尊)が米を食すことにより、天照大神の霊威を身に移し(大嘗祭)、それを年々更新することが新嘗祭の意義である[19]と考える説もある。この説の根拠としては、本来新嘗祭が挙行されていた旧暦11月の2回目の卯の日は太陽の力(天照大神の霊威)が最も弱まる(死と再生を意味する)冬至に近く、さらに卯の日は陰陽五行思想に従うと再生・更新を意味する日である。また、新嘗祭が行われる亥刻(午後10時)は、もっとも太陽の衰えた時刻であり、その陰極まった果てに忌み籠って夕御饌を食して日神の霊威を身に体し、子刻には一旦退出するが、暁の寅刻(午前4時)に再び神嘉殿に入り朝御饌を食し、復活した太陽=日神とともに、天皇としての霊性を更新し、若々しい日の御子、日継の御子として顕現すると解釈される[19]
語源

「新嘗」(にいなめ)の語源については、諸説ある。古語では「ニフナミ」「ニヒナメ」「ニヒナヘ」「ニヒナヒ」「ニハナミ」「ニハナヒ」「ニヘナミ」など、さまざまな呼ばれ方をしていた[20]
「ニヒノアヘ」「ニヒアヘ」の約語という説

本居宣長は『古事記伝』において、「ニヒナヘ」は「ニヒノアヘ」(=「新(にひ)之(の)饗(あへ)」)の約語で、「ニヘ」は「ニヒアヘ」(=「新饗(にひあへ)」)の約言である、と唱え、この説が長らく主流であった[21]
「ニヒ」(「贄(ニヘ)」の派生語)+「ナフ」(補助動詞)の名詞形という説

西宮一民は本居説に対して、「ニヒナヘ」=「新之饗」で「ニヘ」と等しく、「ニヘ」が「ニヒアヘ」(=「新饗」)の約語ならば、「之」の有無で「ニヒナヘ」と「ニヘ」という二つの語形が生じたことになるが、「ニヒアへ」の約は「ニハヘ」であり「ニハヘ」は「ニヘ」とはなりえない、と論じた。その上で、古典の中から

新粟(わせ)の新嘗(にひなへ) …『常陸国風土記』筑波郡

早稲(わせ)を尓倍(にへ)す …『万葉集』3386

より、「ニヒナヘ」「ニヘ」は同じ意に用いられていることがわかる。これらは全て「贄」(にへ)に派生する単語であり、「ナフ」という派生語尾[注釈 18] がつくことによって「ニハナヒ」(四段活用動詞「ニハナフ」《「神や天皇に供薦する」の意》の連用形)、「ニヒナヘ」(下二段活用動詞「ニヒナフ」《「神や天皇がその供薦を受ける」の意》の連用形)の区別がついた、と論じた[22]

さらに、古代中国では稲の祭りを「嘗祭」といったことから、これを当て字にして「嘗」(ニヒナヘ)となったとされる。やがて、「新穀=初もの」という連想から「新」の字が冠せられ、さらに「嘗」の訓読みである「ナメ」に引きずられて「ニヒナメ」(新穀を嘗める[注釈 19])に転じた[23]


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