新党さきがけ
[Wikipedia|▼Menu]
また、鳩山由紀夫内閣官房副長官田中秀征も内閣総理大臣特別補佐となっている。

しかし、緊密な関係を保ってきた細川と武村は「国民福祉税」の導入構想や政権与党の要職に就いていたいわゆる「一・一ライン」(新生党の小沢一郎と公明党の市川雄一)と武村の対立が先鋭化し、武村の更迭も検討されるなど両者の関係にも亀裂が生じるようになった。結果、閣内の求心力低下と政権与党内の対立が表面化し始めた1994年4月8日、細川が突如首相辞意を表明した。これを機に衆議院会派の「さきがけ日本新党」を解消した。同月25日、細川内閣は総辞職。

代わって後継として新生党の羽田孜を首班とする羽田内閣が同月28日発足するが、発足に先んじて同月15日にさきがけは次期政権に対して閣外協力を表明。羽田内閣においては実質的に「政権内野党」の立ち位置となった。その一方で、同月20日に日本新党所属で親さきがけ・反小沢寄りの立場であった五十嵐文彦小沢鋭仁中島章夫の3名が離党し「グループ青雲」を結成。同年5月9日にさきがけは青雲と連携する形で衆議院で統一会派「さきがけ・青雲」を結成した。さらに羽田内閣発足時に野党統一会派「改新」結成に反対し、「青雲」に続く形で日本新党を離党した荒井聰枝野幸男前原誠司高見裕一の4人も会派「民主の風」を結成し、その後、同年5月30日に三勢力が合流する形で統一会派「さきがけ・青雲・民主の風」を結成した。また同年5月22日に社会民主連合が解散したことで、これに前後して菅直人が新党さきがけに入党し、政策調査会長となった。

その後、少数与党となり混乱が続いていた羽田内閣は自民党から内閣不信任決議案を提出され、決議前の同年6月25日に辞意を表明した。自民党は政権復帰を画策し、羽田内閣では連立を離脱していた日本社会党と事実上の政権内野党であったさきがけとともに大連立政権の発足に向けて動くこととなり、同月6月29日の首班指名選挙では社会党委員長の村山富市に投票する事となった。その結果、改新側が推した海部俊樹を下して、村山が内閣総理大臣に指名された。同月30日の羽田内閣の総辞職に伴い、自社さ連立政権による村山内閣が発足。さきがけからは武村が大蔵大臣井出正一厚生大臣にそれぞれ就任し、園田博之が内閣官房副長官に起用されるなど、さきがけは再び政権入りした。同年7月5日、衆議院会派も党名の「新党さきがけ」に改称し「青雲・民主の風」の旧日本新党グループがさきがけに正式に合流した。

1995年4月の第13回統一地方選挙では、1995年東京都知事選挙では「官権政治から民権政治への転換」を党是としていながら自治事務次官内閣官房副長官を経験した与野党相乗り候補の石原信雄を支持したが、元参議院議員の青島幸男に敗れた。同様に1995年北海道知事選挙では社会党を除名された自民党・自由連合が推薦する元衆議院議員の伊東秀子を支持したが、社会党・新進党公明民社協会推薦の横路孝弘知事時代の副知事であった堀達也に敗れた。道府県議会議員選挙では9議席、指定市議会議員選挙では3議席を得た。

同年7月23日の第17回参議院議員通常選挙では、滋賀県選挙区奥村展三が議席を獲得したものの選挙区はこの1議席、比例区2議席の合計3議席獲得にとどまった。同年8月8日村山改造内閣が発足したが、さきがけの閣僚は井出は内閣改造により厚生大臣を退任、武村が大蔵大臣に留任したのみとなった。

1996年1月11日、第1次橋本内閣が発足。さきがけからは菅直人が厚生大臣、田中秀征が経済企画庁長官として入閣した。

同年8月28日、社会・さきがけ2党による新党(社さ新党)の結成を武村と日本社会党委員長から社会民主党初代党首となった村山が試みる。ところが鳩山由紀夫らの反対により断念し、鳩山らとの対立が表面化した。鳩山は新進党に所属していた弟の邦夫、厚生大臣として知名度を高めた菅、元北海道知事の横路らと接触を重ねて新党結成へ動き出し、その過程で新党への武村や社民党委員長の村山、元委員長の土井たか子らの新党参加を拒否する「排除の論理」を示した。同年8月30日、鳩山は新党旗揚げの宣言をするとともに、さきがけを離党した[16]。同日、武村が混乱の責任を受けて代表を辞任し、後継代表に井出正一が就任した。この新党結成の動きに連動してさきがけからは、菅直人、簗瀬進の党幹部や荒井聰、枝野幸男、小沢鋭仁、前原誠司、石井紘基玄葉光一郎といった若手議員も含めて15名が離党。同年9月28日、菅直人・鳩山由紀夫を共同代表として、さきがけ・社民党離党者や市民リーグと共に旧民主党を結成した。

同年10月20日、第41回衆議院議員総選挙では、新進党・旧民主党の結成なども影響し苦戦を強いられ、選挙結果は党代表の井出、現職閣僚の田中、総務会長の三原朝彦、政調会長の渡海紀三朗などを含めて前職7名が落選し、獲得議席は武村と園田の2議席に留まる大敗を喫した。この責任により井出が代表辞意を表明。同月22日に井出が代表を辞任し、議員団座長に堂本暁子が就いた。新政権となる第2次橋本内閣においては社民党とともに閣僚を出さず、閣外協力を決定した。

1998年2月、財政・金融分離問題で武村と意見が対立した田中秀征が離党し、唯一の党友となる。

同年5月31日、第1回党大会開催。武村が代表に返り咲いた。6月、自民党との連立を正式に解消し、環境政党としての再出発を表明した。

同年7月の第18回参議院議員通常選挙では、元議員の井出や宇佐美登など比例区のみ3名の擁立に留まり、議席を獲得できなかった。同年10月20日に党名を「さきがけ」に改称。この際に所属国会議員のうち、園田(無所属を経て自民党へ一時復党)、堂本、水野誠一(両名は参議院クラブを結成)が離党し、所属国会議員は武村と幹事長の奥村展三の2名となった。

2000年6月25日、第42回衆議院議員総選挙で党公認とせず、無所属で武村と参議院から鞍替えする奥村がそれぞれ選挙区で立候補したがいずれも落選し、所属国会議員が0人となったが、同日に1998年の参議選で東京都選挙区から無所属で立候補し当選していた中村敦夫が入党(復党)し、政党として存続することとなった。同年7月3日に中村が代表に就任し、環境政党としての立て直しを図った。

2001年3月10日、武村・奥村が所属していた「さきがけ滋賀」(事実上、唯一の地方組織)が民主党と合併した。同年3月16日、堂本の千葉県知事選挙立候補による辞職に伴い、次点であった黒岩秩子黒岩宇洋の母)が繰上当選したが、その後同年4月13日、黒岩は離党した。

2001年の第19回参議院議員通常選挙には候補者を擁立しなかったことにより、選挙後の7月29日に政党助成法上の政党要件を失った[17]

2002年1月16日、「みどりの会議」に政党名を改称し、「さきがけ」は事実上解党した。
役職
歴代の常任幹事会代表・議員団座長(党首)

代代表在任期間
常任幹事会代表
1
武村正義
[注釈 2][注釈 3]
[注釈 4]1993年6月18日
1996年8月30日
2井出正一1996年8月30日
1996年10月22日
議員団座長
-堂本暁子
[注釈 5]1996年10月22日
1998年5月6日
常任幹事会代表
3武村正義
[注釈 6]1998年5月6日


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef