新京
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1988年に「浄月潭国家森林公園」に指定され、浄月潭と併せて中国国家風景名勝区、中国国家4A級旅游景区等に指定されている[38]
下水道

新京では、国都建設局顧問の佐野利器の強い要望により、新市街全域で水洗便所の普及を実施した。当時の中国大陸の各都市では一般的に便所が存在せず、井戸に汚物が流れ込むなど極めて不衛生だった。新市街においては建築規則に基づき強制的に実施して、100%の便所の水洗化が達成され、アジア初の水洗便所が全面普及した都市となった。汚水は伊通河河畔の汚水浄化施設で処理された後、河川に放流された。

下水道は新市街では汚水と雨水を分ける分流式が全面的に採用され、その他の地域では合流式が採用された[注釈 10]。雨水は新市街を流れる伊通河支流を堰き止めた人工湖(雨水調整池)に蓄えられ、非常水源として確保された。また、伊通河支流は総て親水緑地帯とされ、人工湖を利用した臨水公園が建設された。この結果、新京は世界最高水準の緑化・親水都市の様相を呈するに至った。

下水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、土木科に引き継がれて管理経営すると同時に、新設も土木科で行う事とされた。下水道計画は地形に応じて9箇所の独立した排水区域に分割し、更に50余りの排水系統に分けて、分流式及び合流式により伊通河へ放流した。下水工事の完成区域は、1943年(康徳10年)時点で安民大路、至聖大路以北の殆ど全市にわたり、敷設延長は43万mに及んでいる。
市街地域

市街地域は住居商業工業の三地域に大別され、特に住居地域は住居専用地域を設定して工場の設置を厳重に制限した。商業地域(卸売地域、小売地域、商館地域)は原則として路線式を採用した。工業地域(準重工業、軽工業)は、伊通河の水流と風向きを考慮して市街地東北部に指定された。特に重工業地域は東方の伊通河沿岸を区画整地し、煤煙と騒音が市域に及ばないように配慮された。農村地域は郊外公園或いは生産緑地として緑化を助長し、農耕、山林、牧場等の指定により、無秩序な市街化の防止に考慮されている。

国都建設計画事業区域に於ける建築活動は、「国都建設局建築指示条項」(国都建設局指示第1号)により規制され、建築物の構造、形態、工事執行手続きが定められた。これにより建築物の高さは全市域に亘って20m以下(塔部を除く)とされ、オフィスビルと大型商業建築物は、道路との境界から10 - 15m後退(セットバック)して建設するよう指導した。その後「国都の目抜通りに高低の揃わない建物が歯の抜けた櫛のように並ぶのは都市美観上からも国都の面目にかけても面白くない」ため、広場及び主要道路に美観地区(甲種・乙種・丙種・丁種・戊種及び特殊の6区分)を指定して、主要道路に面した建築物の軒高を規制した。この他に風致地区も指定されている。

人口密度は住居地域に於いて、一平方キロメートルに付き第一級4000人(宅地875m2)、第二級5000人(宅地770m2)、第三級10,000人(宅地440m2)、第四級12,000人(宅地330m2)とされ、商業地域の密度は12,000人とされた。新京特別市全体では一人当り占有面積が約180平方メートル(約55坪)とされた[39]
大同大街大同大街。中央は康徳会館、左手前は三中井百貨店。

新京の市街地を南北に縦断する全長7.5kmに達する大通り。新京駅前のロータリーから始まる中央通は、西公園(1938年(昭和13年)11月3日に児玉公園と改称)付近で幅員がそれまでの36mから54mに拡がり、「大同大街」と名前を変えて市街地南端の建国忠霊廟建国大学まで達していた。

大同大街には関東軍司令部兼在満洲国日本大使館[注釈 11]関東局・関東憲兵隊司令部[注釈 12]や、第三庁舎(財政部、後に建築局)、民生部、蒙政部(後に国務院官用需品局、水利電気建設局が使用)等の官庁の他、ニッケビル、三菱康徳会館、三中井百貨店、大興ビル(満洲興業銀行本店)、東京海上ビル[注釈 13]東洋拓殖ビル(満洲重工業開発本社が入居)等の商業ビルが建ち並び、新京のメインストリートを形成した。これらの建物は、前述の建築指示により軒高が揃うように建設されている。

関東軍司令部

関東局・憲兵隊司令部

ニッケビル

康徳会館

三中井百貨店

大興ビル

東京海上ビル

東洋拓殖ビル

満洲国民生部

満洲国蒙政部

建国忠霊廟

建国大学校舎

大同広場

大同広場は新京駅の南2.5km(満鉄附属地南端から1km)に位置し、道路を含む直径300m、外周約1kmの大ロータリーで、中心部に直径200mの公園広場が設けられている。「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)で新京特別市の区域が明文化されているが、大同広場を基準に区域が指定されているように、大同広場は新京の都心に位置付けられている。また、満洲国の水準原点は大同広場の中央に設置されており、1934年(康徳元年)に、大連湾の中等海水面に基づいて標高が218.170mと定められている。

大同広場からは、放射状に長春大街(東北東方面)、興安大路(西北西方面)、建国路(西南西方面)、民康大路(東南東方面)の各幹線道路が延びており、大同広場の外側を天安路と煕光路が六角形に囲んでいた。これらの街路に囲まれた用地には、満洲中央銀行総行(本店)[注釈 14]満洲電信電話本社[注釈 15]、第一庁舎(国都建設局・文教部の後、新京特別市公署)[注釈 16]、第二庁舎(司法部・外交部の後、首都警察庁)[注釈 17]等の大型公共施設が建設された。

満洲中央銀行総行(本店)

満洲電信電話本社

第一庁舎(新京特別市公署)

第二庁舎(首都警察庁)

順天大街

帝宮造営地から順天広場を抜け、安民大街、至聖大路の交点にあたる安民広場まで一直線に南へ延びる順天大街(現在の新民大街)は、全長1.7km、幅員60mを誇る大通りで、満洲国政府各機関が建ち並ぶ官庁街として建設された。沿道には国務院や軍政部[注釈 18]、司法部、財政部[注釈 19]、交通部の庁舎が建設された。南端には安民広場と呼ばれる大ロータリー(道路を含む直径244m)が設けられ、広場に面して綜合法衙(そうごうほうが[注釈 20])が置かれた。これらの建築物は吉林大学の学舎や病院等として現在も使われており、「八大部」(満洲国の八大統治機構[注釈 21])として吉林省重点文物に指定されている。

満洲国国務院

満洲国治安部

満洲国司法部

満洲国経済部

満洲国交通部

綜合法衙

宮殿宮内府正門

執政府(後の帝宮)造営地は国都建設計画策定時、新京の地形及び執政・溥儀の「絶対南面[注釈 22]」の要望から大房身、杏花村、南嶺の3箇所に限定され、最終的に既存市街に近い杏花村が選定された。詳細は「満洲国皇宮」を参照
帝室保留地

大房身地区と南嶺地区の帝宮候補地は、杏花村に帝宮が定められた後も帝室保留地(皇宮関係用地)として残されていた。そのうち、南嶺地区は文教地区として国立総合運動場や動植物園、大学等の用地として整備された。満鉄連京線西側の大房身地区は、将来新京が拡大した際の本宮殿造営地として、200ヘクタールに及ぶ“帝宮保留地”が計画されていたが、数度にわたり建設計画が見直され、最終的に1942年(康徳9年)の国都建設計画の改定で本宮殿の建設計画は廃止され、住宅用地に変更されている。
建国神廟建国神廟

建国神廟は1940年(康徳7年)7月15日に満洲国皇宮に創建されたが、2年後の1942年(康徳9年)7月15日に、新たに新京特別市浄月区並びにその付近の地域を建国神廟造営用地として治定した[40]


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