新京
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

買収総面積は150万3448坪7[注釈 8]、買収代金は33万875円74銭(坪あたり平均22銭強)に上り[33]、この他に郭爾羅斯前旗王府にも上納金を納め、買収総額は約40万円となっている。

その後、水源地用に伊通河支流沿いの北方隣接地、日本領事館用に商埠地の一部(1万坪)を買収したため、1912年(明治45年)までに満鉄附属地の面積は152万8085坪となった。1926年(大正15年)に附属地西方機関区用地約100万m2、1932年(昭和7年)に国都建設区域に連なる地域(西部附属地と通称)72万8千m2を買収して、1933年(昭和8年)までに面積は210万6900坪まで拡がっている。

1906年(明治39年)に設立された南満洲鉄道株式会社は、1907年(明治40年)4月1日に鉄道の引継ぎを受け、寛城子駅と長春城の中間地(満鉄長春附属地の北部)に長春停車場(長春駅)の建設を開始し、同年9月1日に孟家屯と寛城子の間に仮停車場[注釈 9]を設け、東清鉄道との接続運輸を開始した。同年11月3日の長春駅竣成に伴い貨物業務を開始、次いで12月1日から旅客業務を開始した。1909年(明治42年)2月22日から東清鉄道との接続運輸も長春駅で開始した。

長春駅の建設に合わせて市街地建設も着手し、1908年(明治41年)に第一期の市街計画が立案された。街路は矩形式街路と4本の斜路によって構成され、短辺60(109m)、長辺120間(218m)の長方形を標準に、地形に応じて形状を変更した。長春駅南側に半径50間(91m)の円形広場(北広場)を設け、この広場を中心に放射状に道路網を建設した。駅前広場から南方に長春大街(1921年に中央通に改称)、それに並行する道路として、西一條街?西三條街、東一條街?東六條街の街道、斜路として東斜街(後の日本橋通)、西斜街(後の敷島通)、広安街(後の大和通)、懐徳街(後の八島通)が設けられ、街路と斜路の交点には西広場、東広場(後に南広場に改称)、北角広場(後に東広場に改称)等の広場が設けられた。また南端には西公園(後に児玉公園と改称)が設けられた。中央通は幅員20間(36m)、日本橋通は幅員15間(27m)で建設されたが、商埠地と結ばれた日本橋通沿いに商店が建ち並んで発展した。なお、日本橋通の名称は、満鉄附属地と商埠地の境界付近を流れる伊通河支流に架かっていた「日本橋」に由来する。

1921年大正10年)、街路や街区が中国風の名称から日本風の名称に改められ、中央通の西側は長春駅に近い街区からいろは順に和泉町・露月町・羽衣町・錦町・蓬莱町・平安町・常盤町・千鳥町、東側はひふみ順に日之出町・富士町・三笠町・吉野町・祝町・室町・浪速町・弥生町と町名が付けられた。弥生町以南は、後に五十音順に曙町・入船町・梅ヶ枝町・永楽町・老松町と名付けられている。また、1932年(昭和7年)に西部附属地を取得すると、水仙町・柏木町・桔梗町・芙蓉町・山吹町・白菊町・菖蒲町・花園町・桜木町と花木の名前を冠した町名が付けられた。

満鉄は電気・ガス・上下水道インフラを整備し、日本領事館(後に商埠地側の新取得地に移転)、病院、学校、公園等の公共施設、長春ヤマトホテル、満鉄事務所、憲兵隊分遣所、警察署、郵便局等を建設した。市街地造成後、公共用地以外の土地は華人を含む民間に有料で貸付けられた。1920年代末には附属地人口は26,000人に達していた。

なお、新京特別市が成立した後も暫くは満鉄附属地として存続し、1937年(康徳4年)12月1日の治外法権撤廃により、正式に新京特別市の行政下に置かれている。
新京新市街新京特別市地図(1936年)

1932年(大同元年)3月、満鉄経済調査会に於いて新京都市計画の立案が開始された。一方、同年4月1日に満洲国国務院直属の「国都建設局」が設置され、新京の地形測量及び地籍測量と国都建設の立案を開始した。同年8月、関東軍特務部の主催による、関東軍・満鉄・満洲国国務院の3者による連合打合会が開催され、満鉄経済調査会と国都建設局の両案が比較された。執政府及び官庁街の位置を巡って満鉄経済調査会、国都建設局の双方が対立したが、同年11月17日、満鉄経済調査会案を取り入れた国都建設局の最終変更案が決定された。また、事業開始に先立ち、国都建設計画区域内及びその周囲一円内に対する地債売買禁止令を発布し、民間に於ける土地の売買・担保等が禁止され、土地の買い占めや地価高騰等の弊害を除去した。満洲航空ハブ空港として機能した新京飛行場

新京の都市計画は満鉄附属地を基準に、新京駅[34]前から南に延びる中央通を更に南に延長し、大同大街と呼ばれる大通りを建設した。途中には大同広場と呼ばれる大ロータリーが建設されて新京の都心とされた。大同広場の西方には執政府(後の帝宮)造営地が設けられ、その南面を東西に興仁大路、南方へ順天大街と呼ばれる幹線道路が造られた。政治の中枢は順天大街から南方の安民広場に亘る官庁街、文化・教育中枢は南嶺地区、交通の中枢は新京駅と孟家屯駅との中間に新設する中央大停車場(後の南新京駅)を建設して市の玄関口とした。また、東方の伊通河沿岸を区画して工業地域とし、市民を煤煙騒音から遠ざけるようにした。その他に、国際飛行場、国際大運動場、競馬場、建国大記念塔、大記念門、建国記念公会堂等の建設が計画された。

財務部、文教部、司法部、外交部、国都建設局、国道局等の諸官庁は新市街に建設され、国務院、首都警察庁等の大建築物の建設も行われた。なお、満洲国官吏の多くもこの区域に住居を建設した。

新京の公園、広場、街路の名称は、建国の理想を如実に表現し得るもの、及び満洲国内各地の名称中で含蓄、余韻があるもので、音調宜しく記憶しやすい物を選定し、1933年(大同2年)4月19日付で布告された[35]。また、建設計画区域内の村落で適当な名称は、その因縁を考慮して該当地点の街路名に保留採用した[36]

新京都市計画図

新京都市建設計画用途地域配分並ニ事業第一次施行区域図 第一図

新京都市地域制計画図
附公園系統 第二図

新京都市地域制計画図
附公園系統 第三図

新京都市地域制計画図
附公園系統 第四図

新京都市計画図 第五図

新京都市計画図 第六図

新京都市計画記入図 第七図

国都建設計画

新京の国都建設計画は、国務院国都建設局による第一期事業5ヵ年計画と、新京特別市臨時国都建設局による第二期事業3ヵ年計画に分けられる。第二期事業終了後は、新京特別市の通常の建設行政として市街の建設が進められた。

新市街の建設にあたっては佐野利器など後藤新平の弟子筋の技術官僚が多く活躍した。ほとんど更地からの建設であり、新技術を何の障壁もなく投入して建設でき、上下水道始め社会基盤(インフラ)は内地に比べ立派に整備された。敷設された道路の道幅は非常に広く、狭いといわれた道でさえ自動車同士がすれ違える程だった。
国都建設計画第一期事業国都建設計画事業第一次施行区域図(1934年)

国都建設計画第一期事業は、30年後の予想人口50万人の都市を目指して、国務院国都建設局により1933年(大同2年)3月から1937年(康徳4年)12月までの5ヵ年計画、国庫特別会計3400万圓を投じて実施された。

「国都建設計画法」(大同2年4月19日教令第24号)第2条により、新京特別市の区域(約200km2)を以って国都建設計画区域とされた。それに先立って「国都建設事業区域ニ関スル件」(大同2年1月24日国務院指令第3号)により、国都建設事業区域は下記のように指定されている。

国都建設計画区域(特別市区域)約200km2
近郊隣接地約100km2
国都建設事業区域約100km2
実際事業除外区域南満鉄道附属地約5km2
中東鉄路附属地約4km2
将来逐次整理区域商埠地約4km2
長春縣城内約8km2
国都建設計画事業面積約79km2

満鉄附属地及び寛城子附属地は、行政上その性質を異にするため「実際事業除外区域」とされ、商埠地及び長春縣城内などの既存市街地は、取り急ぎ建設事業の執行を必要としないため「将来逐次整理区域」とされた。これらを除いた「国都建設計画事業面積」は約79km2とされ、このうち官公用途10km2、私用途10km2の合計20km2(後に21.4km2に改定)が執行区域とされた。

国都建設計画区域内では、一般人による独占的買収・その他人為的騰貴を防止するため、1932年(民国21年)2月1日付の吉林省令(土地売買禁止令)を公布して、長春を中心とする30支里以内の民間による土地売買が禁止された。同時に収穫等による土地の算出価格を基礎として、妥当適切な土地買収価格を決定した。これにより最終的に面積100km2に及ぶ広大な地域の買収に当たり、土地収用令の適用を必要としなかった。

国都建設局は事業区域の民有地を買収し、道路、上下水道、その他施設を建設して市街地に整備した後、公用・公共用地以外の土地については、原則として一般競争入札により払い下げた。小売商店街では、一筆を間口12m、奥行き30mの360m2(約110坪)とし、必要に応じて隣接地との合筆も許可した。商館、卸売等の大建築を要する幹線道路沿いでは、一筆を1650m2(約500坪)としている。

住宅地は、地域に応じて第一級(875m2:約265坪)から第四級(330m2:100坪)に分かれており、一筆が狭ければ隣接地との合筆も可能だった。また宅地の背後に幅4m - 6mの背割道路を設け、道路に面さない宅地は存在しないよう区画整理されたので、物資の搬出入には極めて便利だった。

国都建設計画第一期計画区域では、払い下げ価格は目抜きの商店街で坪20 - 25圓、住宅地で坪8圓前後と予想された。これは国都建設局によると、当時の大連郊外の住宅地で坪25 - 60圓、繁華な商業街で千圓近い地価であり、第一期計画区域は将来の大新京市街の中心を成す事を考えると「破格の値段」であり、「国都建設局は全然利益を目的とするものではない」としている[37]

区画された市街地は、事業の着手が早かった北部から南部へ順に売却された。1933年(大同2年)度に大同広場、興安大路、豊楽路、安達街一帯、1936年(康徳3年)度には興仁大路、吉林大路、伊通河東方の一帯が払い下げられた。伊通河東方の一帯(和順街)は、主に買収地域に居住していた農民の移転用地や一般満洲人の新規取得地として想定され、幹線道路の吉林大路で城内と結ばれている。

国都建設計画第一期事業は計画通り完成し、1937年(康徳4年)9月に大同広場で国都建設紀念式典が挙行され、大同大街ではパレードが行われた。
国都建設計画第二期事業

第一期事業の完成に伴い、国都建設事業は国の直轄事業から新京特別市の事業に移管された。1937年(康徳4年)12月27日勅令により、新京特別市の外局として臨時国都建設局が設置され、翌1938年(康徳5年)1月1日から3ヵ年計画で第二期事業が開始された。第二期事業は第一期事業実施区域内の整備充実と残余工事の完成を主目的としていたが、新京の人口増加が著しく、市街地の膨張傾向が窺えたため、1939年(康徳6年)度から方針を変更し、既設区域の整備と共に人口増加に対処すべく、事業費の許す限り区域外への拡張事業に従って、宅地造成、道路築造、上下水道その他施設の応急的施行を実施する事とした。また、南嶺一帯の文化都市化が検討され、国立総合運動場の改修、動植物園、協和広場、大学の整備が決定された。

1941年(康徳8年)12月、第二期事業終了により国都建設事業の特別会計は廃止され、臨時国都建設局は新京特別市の工務処に吸収された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:96 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef