新京
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城内及び商埠地の治安維持は、長春市長監督の下に長春市公安局が一般警察事務を担当し、また長春県知事の指揮を受けた長春県公安局が縣内の警察事務を司っていたが、1932年(大同元年)6月の「首都警察廳(庁)官制」(大同元年6月11日教令第29号)により同年10月に首都警察庁が正式に成立し[7]、新京特別市及び長春県内を管掌する事となった[注釈 6]。首都警察庁は民政部直轄として新京特別市の警察、消防、警護に関する事項を管掌したが[27]、1940年(康徳7年)10月の「首都警察廳官制」(康徳7年10月23日勅令第259号)により新京特別市の外局とされて新京特別市長の管理に属し、市長の下に警察総監及び副総監が置かれ、その下に警務、特務、保安、刑事等の各科、敷島署、長春署、大同署等の各警察署、新京消防署、新京地方警察学校が置かれた。

満鉄附属地の警察行政は関東庁が管掌し、新京では長春警察署(後に新京警察署に改称)が居住民の安寧秩序維持の任に当たった。城内及び商埠地の居住日本人の警察行政は、長春日本総領事館警察署がその任に当たっていた。1937年(康徳4年)12月に治外法権が撤廃され、満鉄附属地の行政権が新京特別市に移譲されると、警察行政も新京特別市に移管された。
財政

新京は新興都市として、また一国の首都として飛躍的に発展し、市営事業収入、市有財産収入、課税収入のほかに市債借入、一時借入金等の方法で市財政を賄った。その経費は奠都の行われた1932年(大同元年)は69万5千に過ぎなかったが、1934年(康徳元年)に512万6千圓、1941年(康徳8年)に2339万6千圓、1944年(康徳11年)予算では9038万5668圓と1932年(大同元年)の経費と対比して約130倍と激増した[28]
交通新京駅

鉄道:京濱線(新京 - 哈爾濱間)、京図線(新京 - 図們間)、京白線(新京 - 白城子間)の各満洲国有鉄道本線起点、南満洲鉄道連京線(大連 - 新京間)終点。大連 - 新京(長春)間の701.4キロメートルは、特急「あじあ」で8時間半で結ばれていた。

バス:吉林、農安、伊通、双陽、双城堡、伏龍泉等には国営、交通会社、満洲自動車経営の長距離バスが運行。

その他:市内電車、市内バスタクシー、豆タク(小型タクシー)、馬車、洋車(人力車)、快車(輪タク)等。

市バスの運賃は初期は国幣(満洲国圓)5分、1角(日本円で5銭、10銭)の2系統だったが、後に各系統均一運賃に改められて1角(10銭)均一となり、終戦時は2角(20銭)均一となっていた。市内電車はバスと同一運賃だったため、運行開始当初は1角(10銭)、終戦時は2角(20銭)に値上げされていた。

新京特別市の交通政策は、地下鉄道を市内交通機関の大根幹とし、路面にはバス、タクシー等を配置して補助交通機関とする方針が建てられていた。国都建設計画第二期事業が開始されると、1939年(康徳6年)に日本内地で地下鉄について最も経験と技術があった大阪市電気局(現在の大阪市交通局)の技術陣を招聘し、半年を費やして地下鉄計画を作成した[29]。市当局は1940年(康徳7年)度より、新京駅 - 大同大街 - 順天大街 - 南新京駅を結ぶ全長13km(全10駅)[30]の地下鉄工事着手を考えていたが、戦争による資材不足によりセメント配給が難しいため断念された。その代替としてトロリーバスの導入を検討したが、1941年(康徳8年)1月に路面電車の敷設が決定された。当初、路面電車は架空線が必要で騒音が大きく、また交通事故の危険があるため採用しない方針だったが、交通難緩和のために導入が決定され、都市美観の観点からメインストリートを避けたルートが選定された。同年6月着工、12月には第一期15kmが開通し、新京交通が運営した。1942年(康徳9年)度には第二期工事が進められ、総延長37.3kmに及んだ。
新京市街新京特別市地図(1933年)

新京の市街は既成市街(旧長春市)と国都建設事業により造られた新市街に大別され、既成市街は南から城内(長春城)、商埠地、満鉄長春附属地、寛城子附属地と大きく4つに区分されていた。これらの地名はその後も通称として使用されていた。ここでは、既成市街それぞれの沿革も記述する。
新京既成市街
城内(長春城)

新京の地は、の黄龍府地、の済洲地、の兀良合部とされ、清朝に入りモンゴル族の公王(扎薩克と呼ばれるジンギス汗一族の子孫)の領地である、内蒙古郭爾羅斯(ゴルロス)前旗に属する放牧地(蒙地)だった。当時、清朝は「柳条辺牆」と呼ばれる柵を設け、満洲平原の東側である満洲族故地への漢人・蒙古人の侵入を禁じる満洲封禁政策が執られていたが、満洲平原への漢人の入植が相次いでいた。

1791年乾隆56年)、郭爾羅斯前旗の公王が放牧地へ密かに漢人を入植させ、永年小作契約を結んで農地を開墾させた。伊通河右岸に「長春堡」が建設されると、1800年嘉慶5年)7月に吉林将軍管轄下の「長春廳(庁)」が新立屯に設置された。1825年道光5年)、長春庁の所在地が南に偏在していたため、北方の寛城子(後の長春城)へ移転したが、名称は変わらず長春庁と称した。これが長春の起源であり、別名を寛城子と称した所以とされている。

1865年同治4年)、匪賊の襲撃を防ぐために地元商人らが資金を集め、独力で周囲20支里[注釈 7]、高さ1丈5尺の城壁(長春城)を築き、後に「城内」と呼ばれる市街地を形成した。なお、1920年頃までに城壁はその多くが撤去されている。満洲国建国後、新市街に新庁舎が完成するまで、交通部、立法院、監察院、総商会、中央銀行等の仮庁舎がこの区域に存在した。
商埠地

商埠地とは1905年光緒31年/明治38年)に「満洲善後条約」第1条に準拠して、清が外国人居留地として自ら指定・開放した地域である。長春は同条約1条で、遼陽吉林、哈爾濱、満洲里等と共に16ヵ所の開埠通商(外国人に交易地として開放)の都市のひとつとされた。

長春の商埠地は、1909年宣統元年)に満鉄附属地により商業的地位が脅かされると考えた現地官憲が、長春城北門外と満鉄附属地の間及び附属地を囲む土地を買収して設置したものである。これは満鉄附属地への対抗策として設けられたものだったが、商業者の移住を奨励し、満鉄附属地と城内を結びつける役割を果たすことにより、長春全体の発展に貢献した。

なお、商埠地及び城内に於いても主要な道路は整備されていたが、市街地外の道路は殆ど整備されておらず、降雨時には馬車が泥濘に嵌まるような悪路も多かった。商埠地は西の大経路、東の大馬路(北門外大街から改称)の二大道路を基軸としており、附属地及び城内に通ずる幹路としている。これに数十条の道路を以って市街を形成していた。最も活況を呈したのは大馬路で、道の両側に大小の商店が軒を連ね、満鉄附属地の日本橋通と連絡して長春駅に達していた。

満洲国建国後、道路橋梁の修築や新道路の建設、上水道を整備して市街が再整備された。新市街整備まで満洲国政府の重要機関も概ねこの区域に存在した。
寛城子

1901年(光緒27年)、ロシア帝国の国策会社である東清鉄道(後の中東鉄路)により東清鉄道南満洲支線が敷設され、長春城から北西の「二道溝」に駅が設置された。長春の旧称から寛城子駅と名付けられ、駅周辺を取り囲む553ヘクタールに及ぶ長方形の土地が「東清鉄道寛城子附属地」とされた。なお、寛城子駅周辺の地名が正式に「寛城子」となったのは鉄道附属地となってからである。

1936年(康徳3年)1月、満洲国が北満鉄路(中東鉄路)をソビエト連邦から買収した事に伴い、それまでソ連の管理下だった鉄道附属地が満洲国に編入され、これにより寛城子附属地も正式に新京特別市の行政区域に組み込まれた。
満鉄附属地

新京ヤマトホテル満鉄新京支社1915年(大正4年)10月29日に創建された長春神社。1932年(昭和7年)に新京神社に改称。平安町に所在[31]

1905年(明治38年)にロシア帝国と締結したポーツマス条約により、日本は長春(寛城子)から旅順に至る東清鉄道南満洲支線を譲渡され、南満洲鉄道(満鉄)と改名した。またロシアが“鉄道保護に必須の土地”として東清鉄道沿線で獲得していた鉄道附属地も日本に譲渡され、“満鉄附属地”と改称した。

この時、鉄道の分割点を巡って日露両国の意見が対立した。日本は寛城子駅での分割を主張したが、ロシアは寛城子駅を含まない長春以南での分割を主張し、寛城子駅及び附属地は日本と共有する事を提案した。1907年(明治40年)4月に分割点を孟家屯北方4kmの八里堡(後の南新京駅付近)と決定し、寛城子駅及び附属地は日露共有とした上で、実際の便宜上ロシアの占有に帰する事とし、評価の半額に相当する56万393ルーブルでロシアに有償譲渡した[32]

満鉄は寛城子駅及び附属地を得る事ができず、新たに長春に停車場を設けるため、長春城の北側、寛城子附属地の南東側に位置する「頭道溝」と呼ばれる一帯の買収に着手した。

当時、頭道溝付近は僅か十数戸の農家が点在する一面の高粱畑に過ぎなかった。1907年(明治40年)3月、満鉄は城内に進出していた三井物産長春出張所を通じて用地買収を実施したが、途中で現地官憲に発覚したため、日清両国政府間の外交交渉を経て、改めて現地官憲と用地交渉が開始された。買収価格は現地商埠公司の標準買収価格(日本円に換算して1坪あたり約10に相当)に若干上乗せを行い、立木・建物への補償も行った。同年9月までに買収が完了し、買収地は“満鉄長春附属地”と命名された。買収総面積は150万3448坪7[注釈 8]、買収代金は33万875円74銭(坪あたり平均22銭強)に上り[33]、この他に郭爾羅斯前旗王府にも上納金を納め、買収総額は約40万円となっている。

その後、水源地用に伊通河支流沿いの北方隣接地、日本領事館用に商埠地の一部(1万坪)を買収したため、1912年(明治45年)までに満鉄附属地の面積は152万8085坪となった。


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