新京
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新京特別市民族別人口表(康徳9年4月20日時点)[18]内訳人口
総人口655,324人
満洲人506,768人
日本人(朝鮮人含む)147,724人
その他(蒙露を含む)728人

1944年

新京特別市民族別人口表(康徳11年11月25日時点)[19]内訳人口
総人口863,607人
満洲人680,216人
日本人153,614人
半島人29,185人
その他592人

人口累年比較

1932年(大同元年)は、国務院国都建設局『國都大新京』5頁、1933年(大同2年)?1939年(康徳6年)は、国務院総務庁統計処『満洲帝國統計摘要 康徳六年版』33-35頁、同『満洲帝國國勢圖表』5-6頁、1940年(康徳7年)以降は『満洲年鑑』各巻等を参照。1937年(康徳4年)以降は満鉄附属地を含む。

なお、各種統計資料により累計人口に相違があるが、本表では国務院総務庁統計処の資料に基づいた。

年度総数男女
1932年(大同元年)104,305人男女別詳細不明
1933年(大同2年)140,945人82,913人58,032人
1934年(康徳元年)160,381人98,474人61,907人
1935年(康徳2年)248,426人155,420人93,006人
1936年(康徳3年)246,824人149,357人97,467人
1937年(康徳4年)334,692人200,202人134,490人
1938年(康徳5年)378,325人226,244人152,081人
1939年(康徳6年)415,473人248,921人166,552人
1940年(康徳7年)5月末447,300人男女別詳細不明
1941年(康徳8年)7月末527,445人
1942年(康徳9年)4月末655,324人
1943年(康徳10年)5月末約720,000人
1944年(康徳11年)863,607人

特別市制

新京は満洲国内で唯一の特別市であり、地方都市がそれぞれの省及び縣の管轄に属しているのに対し、新京特別市は省と同格とされ、直接国家の監督を受け省及び縣の行政範囲に属さなかった[20][21]。なお、長春縣に新京特別市は含まれないが、長春縣公署は新京特別市内に置かれている。

ちなみに、1933年(大同2年)7月1日から4年間、哈爾濱特別市が存在していたが[22]、1937年(康徳4年)7月1日に浜江省管轄の普通市に改編されている[23]

1932年(大同元年)8月17日の「特別市制」(大同元年教令第77号)施行により、満洲国の行政区分に於ける「特別市」が規定されたが、第2条「特別市ノ区域ハ別ニ之ヲ定ム」、第49条「特別市ハ教令ヲ以テ別ニ之ヲ指定ス」により特別市は別途指定されるとされた。そのため、1933年(大同2年)4月19日の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)で新京が特別市に指定されて特別市区域が定められるまで、厳密には新京は満洲国の行政区分における「特別市」には当たらない[注釈 5]。1937年(康徳4年)10月1日の「新京特別市制」(康徳4年9月30日勅令第279号)施行により「特別市制」は廃止され、改めて新京のみが特別市に指定されている。
特別市区域新京特別市区域及び国都建設計画略図(1936年)

新京特別市の区域(国都建設計画区域)は、1933年(大同2年)の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)により次の地域と定められた(現代仮名遣いに改めて句読点を追加。原文では「km」は「粁」と表記)。

大同広場より北西7.6kmの崔家営子を北西端とし、之より東の上白子を経て約9kmの金銭堡を東北端の地点とする。

金銭堡より南1.9km、王家皮舗を経て東1.5km、八里堡より南の吉林街道に至り、十里堡、靠山屯を経て更に南の柳貫竇子に至る。

柳貫竇子より南10.5km、四河腰、?家窩棚、三家子及び呉家店を経て西十里堡を南東端の地点とする。

西十里堡より西の小朝陽溝を経て無名河に至る6.3kmの地点を南西端とする。

南西端より北へ三家子、司家屯、二十五里堡、五弧林、大隋窩堡、李家屯、范家店、火李子及び車家窩棚を経て北西端の崔家営子に至る。

大同広場(現在の人民広場)を中心に、南方は高野店付近の丘陵地、東方は石碑嶺付近、西方は小隋窩棚に及ぶ200km2の長方多角形の地域が特別市区域とされたが、その後、1937年(康徳4年)の「新京特別市制」(康徳4年勅令第279号)施行に伴い「大同2年教令第23号特別市指定ニ関スル件」は廃止され、以降は「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年勅令第280号)等の勅令の別図(地図)によって市域が示されるようになった。なお「新京特別市竝ニ吉林省長春縣及通陽縣ノ区域変更ノ件」(康徳10年6月1日勅令第172号)では文章で市域が示されており、別図は付属しない。
行政範囲

前述の通り、新京の行政範囲は1933年(大同2年)時点で近郊を含めて200km2(6500万)に及び、従来の行政範囲である城内及び商埠地の約300余万坪と比較して約20倍に拡大された。1933年(大同2年)当時の城内、商埠地、満鉄附属地及び寛城子の面積は次の通りである[24]

市街地名面積
城内1,755,160坪
商埠地1,631,982坪
満鉄附属地1,528,118坪
寛城子1,674,000坪

1937年(康徳4年)10月の「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年9月30日勅令第280号)で双陽・長春両県の一部を編入して市域が大幅に拡張され、同年12月の満鉄附属地の移譲[10]により総面積は437.65km2となった。1942年(康徳9年)4月20日時点では444.19km2まで拡張されている。当時の全市域の面積を大別すると、旧附属地6.24km2、旧市街(寛城子を含む)17.88km2、新市街地83.33km2、農村地区(長春縣管内より130km2、通陽県管内より107km2)336.74km2、合計444.19km2となっている。

1943年(康徳10年)6月1日、建国神廟造営用地の決定に伴う行政区域の拡大に伴い、通陽県及び長春県の一部を編入して勧農区・春陽区を設置し、市域は938.29km2まで拡張された[25]
行政区

市区条例の実施に伴い、新京特別市の市域を複数の行政区に分け、それぞれに区長を設置した(「新京特別市制」第13条)。当初、区長は名誉職のため無給だったが、後に一部は有給職となっている。

1937年:吉野、興安、敷島、寛城、大経、長春、和順、順天、東光、東站、承徳、恵仁の12市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区を設ける。

1940年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、承徳、恵仁の8市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区に改編。

1942年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、西陽、安民、大同、東栄の10市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区に改編。

1943年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、西陽、安民、大同、東栄の10市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月、勧農、春陽の8農村区に改編。

下記は1942年(康徳9年)4月20日時点における各区の面積と人口を記したものである[26]

各区別面積及び人口表区名面積(km2)人口(名)
大同区3.570107,128
長春区3.960139,726
敷島区4.96067,603
寛城区11.90025,221
東光区15.92027,720
順天区8.64059,962
安民区21.7008,079
西陽区18.2604,715
和順区10.32083,757
東栄区8.52041,805
浄月区124.01015,938
双徳区50.12012,785
大屯区34.23016,251
合隆区39.31036,990
南河東区50.7609,381
北河東区38.3108,803
合計444.190655,324

浄月区の面積が広大なのは、新京の水源として設けられた浄月潭貯水池(貯水面積4.7km2)とその水源林を含むためである。
行政組織
一般行政

1932年(大同元年)の「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)により、市長の下に総務処、行政処、工務処が設けられ、この他に議決機関として特別市自治委員会が設けられるとされた。その後1937年(康徳4年)の「新京特別市官制」(康徳4年6月27日勅令第179号)により、市長の下に副市長1人、処長5人が設置され、その下に官房、行政処、財務処、衛生処、工務処が設けられ、特別市自治委員会は廃止されている。その後、市行政機構改革により、市長の下に副市長が置かれ、その下に官房、行政処、実業処、衛生処、工務処、水道処が設置された。

また市政補助行政部門について、「新京特別市制」第13条による市政補助機関として区長が置かれ、区長の下に町(屯)会長を置いている。この下部組織は、1937年(康徳4年)12月1日の満鉄附属地の行政権移譲[10]を契機として、首都警察庁、満洲国協和会と図り、保甲制度の廃止に伴い実施された。1941年(康徳8年)2月、在来の町会を発展的解消して、協和会分会を以って町会事務を運営するよう改められた。

なお、満洲国建国当初、満鉄附属地の一般行政は南満洲鉄道長春地方事務所(後に新京地方事務所と改称)が所管していたが、1937年(康徳4年)12月に治外法権が撤廃されると、正式に新京特別市の行政区域に組み込まれた[10]
警察組織

城内及び商埠地の治安維持は、長春市長監督の下に長春市公安局が一般警察事務を担当し、また長春県知事の指揮を受けた長春県公安局が縣内の警察事務を司っていたが、1932年(大同元年)6月の「首都警察廳(庁)官制」(大同元年6月11日教令第29号)により同年10月に首都警察庁が正式に成立し[7]、新京特別市及び長春県内を管掌する事となった[注釈 6]。首都警察庁は民政部直轄として新京特別市の警察、消防、警護に関する事項を管掌したが[27]、1940年(康徳7年)10月の「首都警察廳官制」(康徳7年10月23日勅令第259号)により新京特別市の外局とされて新京特別市長の管理に属し、市長の下に警察総監及び副総監が置かれ、その下に警務、特務、保安、刑事等の各科、敷島署、長春署、大同署等の各警察署、新京消防署、新京地方警察学校が置かれた。

満鉄附属地の警察行政は関東庁が管掌し、新京では長春警察署(後に新京警察署に改称)が居住民の安寧秩序維持の任に当たった。城内及び商埠地の居住日本人の警察行政は、長春日本総領事館警察署がその任に当たっていた。1937年(康徳4年)12月に治外法権が撤廃され、満鉄附属地の行政権が新京特別市に移譲されると、警察行政も新京特別市に移管された。
財政

新京は新興都市として、また一国の首都として飛躍的に発展し、市営事業収入、市有財産収入、課税収入のほかに市債借入、一時借入金等の方法で市財政を賄った。その経費は奠都の行われた1932年(大同元年)は69万5千に過ぎなかったが、1934年(康徳元年)に512万6千圓、1941年(康徳8年)に2339万6千圓、1944年(康徳11年)予算では9038万5668圓と1932年(大同元年)の経費と対比して約130倍と激増した[28]
交通新京駅

鉄道:京濱線(新京 - 哈爾濱間)、京図線(新京 - 図們間)、京白線(新京 - 白城子間)の各満洲国有鉄道本線起点、南満洲鉄道連京線(大連 - 新京間)終点。大連 - 新京(長春)間の701.4キロメートルは、特急「あじあ」で8時間半で結ばれていた。


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