満洲国 新京特別市
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別称:国都
旧称:長春
吉林省における新京特別市の位置吉林省における新京特別市の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度55分0秒 東経125度18分0秒 / 北緯43.91667度 東経125.30000度 / 43.91667; 125.30000
新京特別市(しんきょうとくべつし)は、満洲国の首都。現在の中華人民共和国吉林省長春市にあたる。
概要新京特別市徽章。1932年(大同元年)9月20日規定[1]。
満洲国建国直後の1932年(大同元年)3月9日、長春に於いて建国式典及び清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の満洲国執政就任式が執り行われた。翌3月10日、満洲国国務院は満洲国の国都(首都)を長春に定め[2]、3月14日には国都長春を新国家の首都に相応しい名称として「新京」と命名し[3]、新京特別市が誕生した。なお、民政部では1932年(大同元年)5月24日に発令した「衛生調査事項ニ関スル件」(大同元年民政部訓令第62号)まで旧称の「長春特別市」が使用され、同日発令の「事変時死亡老幼孤児寡婦調査表製発ノ件」(大同元年民政部訓令第61号)以降(大同元年民政部訓令第62号を除く)は「新京特別市」及び「新京特別市政公署」が使用されている[注釈 1]。同年8月17日の「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)施行及び、翌1933年(大同2年)4月19日の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年4月19日教令第23号)により、改めて満洲国の地方行政区画に於ける新京特別市が成立した。
新京は太平洋戦争の終結まで日本からの投資、及び満洲国政府・市当局による大規模な国都建設事業が展開され、日本人移民を含めた満洲各地からの移住者により繁栄し、人口も1932年(大同元年)の約13万人から1936年(康徳3年)10月時点で30万2千人、1940年(康徳7年)10月時点で55万5千人、1942年(康徳9年)4月時点で65万5千人と増加の一途を辿り、1944年(康徳11年)には86万3千人を擁する、哈爾濱(67万9546人)を抜き、奉天(189万694人)、大連(87万2679人)に次ぐ満洲国第3位の大都市に発展した[4]。
1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を一方的に破棄したソビエト連邦による満洲侵攻と日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡し、新京は8月20日に赤軍(ソビエト連邦軍)に占領され軍政下に置かれた。同時に旧称の長春に改称されて現在に至っている。 新京は満洲国の中央部、吉林省長春県内にあり、北緯43度55分、東経125度18分、海抜214メートルに位置する。緯度は日本の旭川、経度は朝鮮の新義州付近に相当し、標高は山梨県甲府市付近に匹敵する[5]。 市街東部を伊通河が北流し、飲馬河と陶頼昭付近で合流して第二松花江に注いでいる。新京は北満平野の南端に位置し、周囲には広漠たる沃野が展開した。南東方向には石碑嶺の連丘を望み、南西には懐徳から公主嶺を経て伊通付近に及ぶ丘陵が起伏し、これらは満洲を南北に分かつ分水嶺を構成している。 ここでは新京特別市成立以前及び満洲国崩壊後の「長春」の沿革も併せて記述する[6][注釈 2]。
位置と地勢
沿革
1800年(嘉慶5年) - 吉林将軍管轄下の「長春庁」が長春堡(新立屯)に設置され、理事通判を駐箚させる。
1825年(道光5年) - 長春庁の所在地が南に偏在していたため、北方の寛城子(後の長春城)へ移転する。
1882年(光緒8年) - 理事通判を廃止して撫民通判が置かれる。
1889年(光緒15年) - 長春庁が長春府に昇格し、知府が置かれる。
1908年(光緒34年) - 吉林兵備道台が設けられ、長春府及び伊通州を行政下に置く。
1909年(宣統元年)
満鉄附属地と城内の間に商埠地が画定され、その一般行政を管掌するために商埠局が設置される。
吉林兵備道台が吉林西南路観察使と改称され、農安、長嶺、徳恵の3県をその管内に加える。
1912年(民国元年) 観察使を道伊と改め、吉長道伊公署と改称する。
1913年(民国2年) - 長春府を長春県と改称し、県公署を設置する。
1925年(民国14年) - 当時の道伊が新たに「長春市政公所」を設立し、「市自治制」による市制を企画する。
1929年(民国18年)
道伊公署の廃止により長春交渉員(後に長春市政準備処長を兼任)が配置され、城内及び商埠地を行政下に置く。
9月、長春市政公所が商埠局を合併し「長春市政準備処」と改称する。
1932年(民国21年/大同元年)
1月1日 - 軍閥政権消滅に伴い、長春市政準備処は「長春市政府」と改称し、長春市が正式に成立する。
2月25日 - 「東北行政委員会」が発表した「新国家組織大綱」で、満洲国国都を長春とする事が発表される。
3月10日 - 満洲国国都が長春に定められたのに伴い[2]、特別市に指定される(長春特別市の成立)。
3月14日 - 長春が新京と改称されたのに伴い[3]、長春市政府は「新京特別市政公署」と改称し、新京特別市が成立する。
8月17日 - 「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)を公布。
10月15日 - 首都警察庁が正式成立し、長春市公安局及び長春県公安局を統合する[7]。
11月1日 新京における各郵電局台の名称を「長春」から「新京」に改称する[8]。また、満鉄附属地側も新京と称するようになる[注釈 3]。
1933年(大同2年)4月19日 - 特別市制実施に伴い、新京特別市政公署は「新京特別市公署」と改称する。
1936年(康徳3年)2月1日 - 北満特別区公署の廃止に伴い、寛城子を編入する。
1937年(康徳4年)
10月1日 - 行政区域の拡大に伴い、双陽県及び長春県の一部を編入する[9]。
12月1日 - 治外法権撤廃により満鉄附属地の行政権が新京特別市に移譲される[10]。市区条例の実施に伴い、18区(市街区12区・農村区6区)を設置する。
1940年(康徳7年)1月1日 - 14区(市街区8区・農村区6区)に改編する。
1942年(康徳9年)1月1日 - 16区(市街区10区・農村区6区)に改編する。
1943年(康徳10年)6月1日 - 行政区域の拡大に伴い、通陽県[注釈 4]及び長春県の一部を編入し[11]、18区(市街区10区・農村区8区)に改編する。
1945年(康徳12年/民国34年)
8月13日 - ソビエト連邦の満洲侵攻に伴い、通化省臨江県大栗子へ遷都。