新井白石
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白石は明暦の大火の翌月の明暦3年2月10日1657年3月24日)、江戸柳原の避難先で生まれた[2]。先祖は上野国新田郡新井村群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉小田原征伐によって没落したといわれている[注釈 1]。のちに父・正済は上総久留里藩に仕官し、目付をつとめている。

幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。聡明だが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主・土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったという。延宝2年(1674年)、17歳で中江藤樹『翁問答』(1649年刊)を読み儒学を志す[4]

利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は2年後の延宝5年(1677年)に土屋家を追われる[注釈 2]。貧困の中で儒学・史学に励み詩文を学んだ。

その後、直樹が狂気を理由に改易されると自由の身となった白石は、天和3年(1683年)、大老堀田正俊に仕えたが、その正俊が若年寄稲葉正休に殿中で刺し殺されると、堀田家は古河山形福島と次々に国替を命じられて藩財政が悪化する。白石は堀田家を自ら退いて浪人し、独学で儒学を学び続けた。

この間、豪商の角倉了仁から「知人の娘を娶って跡を継がないか」と誘われたり、河村通顕から「当家の未亡人と結婚してくれれば3000両と宅地を提供する」という誘いを受けたりしたが、白石は好意に感謝しつつも、「幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを引いて断ったという逸話がある。
順庵との出会い

独学を続けていた白石は、貞享3年(1686年)になって朱子学者・木下順庵に入門することになった。通常入門には束脩(入学金)がかかるが、白石にはそれが免ぜられ、順庵も弟子というより客分として遇するほど白石に目にかけていた節がある。順庵の門下生には白石の他、雨森芳洲室鳩巣祇園南海など、後に高名な学者になる者が多く集まっていたため、順庵に入門できたことは白石にとって意義があった。 師匠の順庵は白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官を見つけてきた。白石も後年「加州は天下の書府」と賞賛しているように、加賀藩は前田綱紀のもとで学問が盛んであった。ところが同門の岡島忠四郎から「加賀には年老いた母がいる。どうか、貴殿の代わりに私を推薦してくれるよう先生(順庵)に取り次いでいただけないでしょうか」と頼まれ、岡島にこの地位を譲った。

その後、順庵は元禄6年(1693年)、甲府藩主である甲府徳川家への仕官を推挙した。白石が37歳の時である。藩主・徳川綱豊は当初、林家に弟子の推薦を依頼したが、当時の綱豊は将軍・徳川綱吉から疎んじられており、林家からは綱豊に将来性なしと見限られ断られていた。そこで順庵に推挙を依頼してきたのである。

甲府徳川家の提示した内容は、当初30人扶持の俸禄だったが、順庵が「白石よりも学問が劣る弟子でさえ30人扶持などという薄禄はいない。これでは推挙できかねる」とかけあった結果、甲府徳川家からは改めて40人扶持が提示された。それでもなお順庵は推挙を渋ったが、白石は「かの藩邸のこと、他藩に準ずべからず(御両典である甲府徳川家は他の大名家とは訳が異なる)」と、むしろ綱豊の将来性を見込んで順庵に正式に推薦を依頼した。
正徳の治詳細は「正徳の治」を参照

この節の加筆が望まれています。

徳川綱吉は多額の支出をして寺社を建立して祈祷し、生類憐れみの令を出したが、新井白石がこれを廃止した。

宝永6年(1710年)、綱豊はを家宣と改め、将軍となった。家宣は将軍に就任すると、側用人の松平輝貞松平忠周を解任し、大学頭・林信篤を抑えて、白石にその職責の大半を代行させた。家宣が将軍世子となったことで甲府徳川家は断絶となり、家宣は白石や間部詮房を引き続き自身の側近として登用する。白石や詮房は将軍家宣期に、正徳の治と呼ばれる政治改革を行った。白石の身分は500石取り(のち正徳元年に1000石に加増)の本丸寄合、すなわち無役の旗本なので、御用部屋に入るわけにはいかず、家宣からの諮問を側用人間部が白石に回送し、それに答えるという形を取ったと伝えられ、一介の旗本が、将軍侍講として幕政の運営に深く関与したのは異例のことだった。

白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしている。

家宣が没すると、その子の7代将軍・徳川家継の下でも引き続き、間部と共に政権を担当することになったが、幼君を守り立てての政局運営は困難を極めた。幕閣や譜代大名の抵抗も徐々に激しくなり、家継が夭逝して8代将軍に徳川吉宗が就くと、白石は失脚、公的な政治活動から退いた。

なお、城廻鎌倉市)に家禄を得ると、白石は付近にある龍宝寺に200石を献上した。龍寶寺には、風化して判読不能であるが、享保10年(1725年)に室鳩巣が撰した「朝散大夫新井源公碑銘」がある。
引退後

致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたという。


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