斯波義敏
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文明3年(1471年)、越前国主の座を見返りに朝倉孝景が東軍へ寝返り、越前で実力支配を展開していった。この時、義政は孝景が合戦を起こしても行動しないように義敏に命じたので中立化したが、やがて越前の西軍勢力を駆逐した孝景の勢力の前に義敏は苦境に立たされる。最後は越前統一を目前とした孝景に対抗するため、越前大野の土橋城に籠もるものの、文明7年(1475年)末に孝景の総攻撃を受け、孝景によって京都に送り帰された。これを記述する『応仁記』は、西軍方であった甲斐氏が義敏に加担したとするが、甲斐氏が義敏と結んだ事実は確認できず矛盾があり、この記事は虚偽であるとする見解もある。

記録などから義敏と孝景の対立の公然化が確認できるのは、義良(後に義寛)が越前に下向する文明11年(1479年)以降である[20]。義良は越前奪還の兵を出し、また幕府にたびたび訴訟を起こすが(長享の訴訟・延徳の訴訟)、ついに越前の回復を果たせなかった[21][22][23][24][17][25][26]
晩年

帰京後の義敏は文化的活動が主となり、武衛家当主としての実質的な活動は義寛に任せて、前将軍義政の側にあったと思われる。文明13年(1481年)に斯波氏嫡流の事績及び自分の嫡流相続の経緯をまとめ『斯波家譜』として残す[注釈 5]。また歴代の武衛家当主達と同じく連歌などもよく行い、『新撰菟玖波集』には7首が入選している。文明17年(1485年)、義敏は従三位左兵衛督になっているが、これは斯波氏歴代を見ても破格の待遇であった。この年の8月に義政に従って出家、入道道海と号し、名実共に義寛に武衛家家督を譲る。出家後にはを本格的に始め、新将軍足利義材の師でもある豊原統秋らから指導を受けた。笙は足利将軍の権威の象徴であるとともに、斯波義将義種兄弟ゆかりの楽器であったとされ、斯波氏の権威を内外に示す意図があったとみられている[27]

永正5年(1508年)に死去。享年74。法名は即現院殿道海深叟。

武衛家の家督自体は、義敏が将軍父子を擁する東軍に属し、西軍の義廉に追討令が下ったこともあって取り戻すことには成功した。しかしこの一連の家督争いの間に、高祖父高経以来の領国であり斯波氏の本拠地ともいえる越前を家臣に過ぎなかった朝倉氏に奪われるなど、斯波氏はその後衰退してゆくこととなる。ただし、越前は失ったものの、義敏が京都にて幕府や朝廷との関係を保ち、義寛が尾張での領国経営に成功したことで、文明から明応にかけては斯波氏が政治的復権を果たしていたという見解も存在する。この見解では応仁の乱と朝倉氏の越前奪取よりも、明応の政変において足利義材派として政治力を失ったことと今川氏の遠江侵攻の方が斯波氏の衰退の直接的原因となったとしている[28]
官歴

※日付は旧暦

享徳元年(1452年)、家督相続。従五位下左兵衛佐。越前、尾張、遠江守護補任。

長禄3年(1459年)、三ヶ国守護職罷免。家督剥奪。

文正元年(1466年)7月、家督再承。

文正元年(1466年)8月、三ヶ国守護職再任。

文正元年(1466年)9月、三ヶ国守護職罷免。

応仁2年(1468年)7月、嫡子松王丸(義寛)に三ヶ国守護職補任。

文明7年(1475年)10月、尾張に赴く。

文明10年(1478年)7月24日、従四位下に昇叙。これ以降、左兵衛督に転任か?

文明16年(1484年)8月8日、従三位に昇叙。

文明17年(1485年)8月、出家。入道道海と号す。

偏諱を受けた人物

斯波政敏
(まさとし、息子、奥田秀種の実父)

朝倉敏景朝倉氏第7代当主・英林孝景の初名) - 後に義敏と対立

織田敏広岩倉織田氏(織田伊勢守家))

織田敏定清洲織田氏(織田大和守家)) - 子とされる敏信[注釈 6]敏宗秀敏も「敏」の字を使用。

織田敏任(としとう、敏定の弟とされる)

織田敏貞(としさだ、敏定・敏任の叔父(父・久長の弟)とされる)

織田敏仁(としひと、同上、久長の弟で養子とされる)

甲斐敏光(甲斐常治の子) - 後に義敏と対立

脚注
注釈^ 小泉義博は『康富記』の元服記事から永享9年生まれ説を採用する[2]
^ なお、『尊卑分脈』『応仁記』などには右兵衛佐と記されているが、幕府発給文書には「左兵衛佐」と記されており誤伝と思われる。また、小泉義博は斯波義種系(大野斯波氏)の初任官は民部少輔であることから、義敏も元服時に同氏の後継者として民部少輔に任ぜられ、翌年の武衛家の家督継承によって左衛門佐に転じたと推定する[3]
^ 松王丸の家督継承の時期は不明であるが、長禄3年7月19日時点で甲斐常治が幕府の命によって施行状を発していることが確認できる(通常は幕命を受けて守護の施行状が出され、守護の施行状に基づいて守護代の施行状が出されるが、守護が幼少である場合には守護の施行状が省略される場合があった)ため、この段階で松王丸が既に斯波氏家督・守護であったことが判明する[9]
^ 義政は事前に孝景・敏光両者を召してこの措置を伝え、孝景には領地を7箇所も与えて今後の越前守護代に関しても何らかの言い含めがあったとされる[11][12][6][13][14]


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