斯波氏
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注釈[脚注の使い方]^ 次男氏経や三男氏頼は隠遁(いんとん)に追い込まれることになった[7]。もっとも、氏経の場合は父が幕府に背いた時に幕府方に留まったことや九州探題としての失敗も失脚の原因であった。
^ 元服時に従五位下治部大輔に叙任され、家督相続時に従四位下左兵衛佐、さらに左兵衛督へ転ずるのを通例とし、最終的には三位に昇った。
^ 義将自身は後にさらに格上の官職と当時見られていた右衛門督に遷任した(『荒暦』)。
^ なお、『満済准后日記』永享5年11月30日条は7代義淳の危篤によって急ぎ還俗することになった瑞鳳(義郷)の諱選定の記事であるが、この時に下の字(この場合は足利義教の「教」の字)を与えられる可能性もあったという。
^ 近年、この時の吉良氏の当主を義昭ではなく、兄の吉良義安であったとする説もある[20]
^ ただし「武衛系図」では秀頼を弟として扱っておらず、仮に兄弟だったとしても相続権のない庶子だった可能性が強い。
^ 偏諱の授与に関しては、初代義種・5代義孝・6代義縁・7代義信が本家である武衛家と同様に、足利将軍家の通字(「義」の1字)を受け、2代満種とその弟の満理・3代持種とその子の政種)が下の字を受けていた。
^ 斯波氏経の子義高も「詮将」と名乗っているため、一説には、斯波詮将以降氏経の後裔とするものもある。

出典^ a b c 太田 1934, p. 2793.
^ a b c d e f 太田 1934, p. 2791.
^ 百科事典マイペディア『足利氏』 - コトバンク
^ 松田敬之 2015, p. 350.
^ 後身である斯波氏が後に尾張守護となった為に誤解されやすいが、この場合の『足利尾張家』は「尾張の足利家」では無く「尾張守を称した足利家」の意である
^ 但し織豊期に至るまで斯波氏、特に同氏嫡流(武衛家)を「斯波姓」で記載する史料は殆ど見られず、むしろ武衛家以外の分家(『奥州余目記録』における「(越前)斯波殿」等)を「斯波」と指す例が見られる
^ a b c d 木下 2015, §. 斯波氏の動向と系譜.
^ 『康富記』嘉吉3年6月19日条
^ 文明12年6月18日兼雅書状(『大乗院寺社雑事記』文明12年7月25日条裏文書
^ 小泉 2015, §. 室町期の斯波氏について.
^ 谷口 2019, p. 118-119・129.
^ 小久保嘉紀 2007, p. [要ページ番号].
^ 谷口 2019, p. 125-131.
^満済准后日記』永享5年11月30日条に「彼家(武衛家)ニハ毎度上御字義ヲ被下歟。(中略)任先例上御字ヲ可被下云々。」とある。
^薩戒記』応永32年11月20日条「今日、武家管領畠山右衛門佐入道(畠山満家)三男(畠山持富)加首服。又、左兵衛佐義淳(斯波義淳)号勘解由小路也、入道殿御一族也息(斯波義豊)加首服。名字義豊云々。是禅門令相計給也。義字當時諸人輙不付之也」これは義淳嫡男である義豊の元服記事であるが、ここでは義淳を指して「入道殿(足利義持)御一族也」としている。義豊と同時に元服を行った同じ足利一門であり三職家で現役管領の子息である畠山持富に対してはそのような注釈はない。
^ 『老松堂日本行録』宋希m著。「武衛(斯波義淳)は其の王(日本国王・足利義持)の次人なり」
^ 谷口 2019, p. 146-153.
^ 谷口 2019, p. 153.
^ 下村 2015.
^ 小林輝久彦「天文・弘治年間の三河吉良氏」『安城市歴史博物館研究紀要』12号、2012年。/所収:大石泰史編 『今川義元』 戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年6月。ISBN 978-4-86403-325-1 2019年、P263-265・272-273.
^ a b c d e f g h 太田 1934, p. 2792.

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