斯波氏
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武衛家
名の由来平安女学院前に建つ武衛陣(勘解由小路邸)跡碑

管領義将以降室町幕府管領家の一つとなった斯波氏嫡流は、前述の通り実際には室町時代にも斯波姓で記述される例はほとんどなく、武衛(家)と呼ばれる[2]。基本的には当時「武衛(屋形)」や「勘解由小路(武衛)」と記されている。

武衛(ぶえい)とは兵衛府唐名で、代々当主が兵衛府の督(かみ=長官)や佐(すけ=次官)に任ぜられた[注釈 2]ことに由来する。督は唐名を武衛大将軍といい、室町幕府では初代将軍足利尊氏やその弟で幕府の実質的な首長であった足利直義、また尊氏の子で鎌倉公方基氏など将軍の近親者に限られていたが、義将が任じられて[注釈 3]以降斯波氏当主も左兵衛督(さひょうえのかみ)に任官するのが慣例となった(左兵衛督まで進んだ可能性がある当主は義将・義重・義淳・義敏・義寛の5名)。
勘解由小路武衛

勘解由小路(かでのこうじ)は洛中の小路の名で、武衛家がここに本邸を構えたことにより、南北朝が合体した明徳の頃から永正の頃までの約100年間、文献に「勘解由小路左衛門督入道」(斯波義将)や「勘解由小路武衛」(斯波義重斯波義淳ら)などとの呼称で現れる。ほぼ「勘解由小路武衛」もしくは「勘解由小路◯◯入道」などと呼ばれ、逆に「勘解由小路卿」や「勘解由小路◯位」と単独で呼ばれることはほとんど無い。

邸宅は武衛陣と呼ばれ、現在でもその一帯が武衛陣町(京都市上京区)という地名で続いている。勘解由小路亭は当初は寝殿造の貴族的な優美なものであったらしいが次第に防御機能が高められた[要出典]。

清和源氏足利家の別流である足利尾張家の斯波義将が室町幕府の管領となり本宅を勘解由小路に面して構えたことから勘解由小路殿とよばれ直系子孫代々が継承してその邸宅(武衛陣)に居住したことから斯波氏宗家の別の家名として定着した。
三管領の筆頭

高経死後に義将が幕政に復帰すると、時の管領細川頼之と対立。頼之の政策に批判的な反細川派の諸侯を結集させ、3代将軍義満に対し頼之の罷免を求める康暦の政変を起こして再び管領となった。義将は、将軍義満と幕府全盛時代を支え続け、義満の没後も4代将軍義持を補佐した。この間、朝廷から打診のあった義満に対する太上天皇の追号を拒否したり、屈辱的との批判が多かった勘合貿易の廃止を提言するなど、康暦の政変以降自身の死まで、およそ30年間にわたって幕府の宿老として大きな影響力を持った。また三管領四職七頭の制ができると、斯波氏は畠山氏細川氏とともに管領を出す家柄、特に三管領筆頭の家柄として重んじられた。

義将の子義重は、応永6年(1399年)の応永の乱における大内氏討伐の功により尾張守護職を、さらに後には遠江守護職も加えられて、以後はこれに本領であった越前を合わせた3か国の守護を世襲した。
勢力後退

応永17年(1410年)、宿老として長年にわたり幕府に大きな影響力を与えていた義将が没すると、義重の子義淳は管領職を解任されてしまう。応永21年(1414年)には義将の甥満種(義種の子)が将軍義持の不興を被り、加賀守護職を失って高野山に隠退。永享元年(1429年)に足利義教が6代将軍に就任すると義淳が再び管領となったが、強権的な政治を行う義教と宥和的(ゆうわてき)な政策を目指す義淳は相いれず、義淳は度々管領の辞職を申し出ている。やがて嫡男義豊にも先立たれ心身ともに疲弊した義淳は3年後の永享4年(1432年)にようやく管領の辞任を許され、翌永享5年(1433年)に病没する。

義淳の後嗣となった弟の義郷やその子の義健も相次いで早世し、その間に勢力を伸ばした細川氏や畠山氏に押され、武衛家は大きく後退してしまう。細川氏が畿内を抑え、畠山氏も畿内近辺に分国を有すのに対して、武衛家の分国は尾張・越前といった京都から遠い場所に分散していた上、当主は京都に滞在していることが多かったため、支配は守護代に委任せざるをえなかった。このため次第に分国の実権は越前守護代甲斐氏朝倉氏や尾張守護代織田氏らの重臣らに牛耳られるようになっていった。
足利一門の高家

この間、6代将軍義教の時代(永享年間)に御一家制度が整備されたとされる。「御一家」は足利一門の中でも家格の高い吉良氏石橋氏渋川氏(京都家)の三氏を三管領家(三職)と同格に遇し(一説に吉良氏は三職に優越するという)、かつ後世には足利将軍家断絶の際にはその継承権を持っていたとの一種の伝承がささやかれた家格であった。「御一家」の三氏と斯波氏は"足利氏惣領の庶兄"を祖とする共通点を有し(見方を変えれば斯波氏にも潜在的な将軍家継承権があり、実際に5代将軍足利義量の没後にはそうした噂も流されたことが『看聞御記』に記されている)[11]、三氏のうち、石橋氏は足利尾張家の分家筋、渋川氏も弟筋の同族なので、武衛家の家格も御一家相当の高さがあり、実際に室町殿の書札礼を見る限り、吉良氏はもちろんのこと堀越公方家などの将軍連枝と同じ書札礼(「状如件」の書止文言)を適用され、前述の通り同時代の史料のほとんどで「斯波」の名字は現れず「武衛」または「勘解由小路武衛」と記されるなど(なお吉良氏は「吉良」と名字で記述される)、戦国後期に至るまで室町幕府体制下では別格の扱いであった[12]


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