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出典検索?: "斎藤道三"
凡例斎藤 道三 / 斎藤 利政
斎藤道三像(常在寺蔵)
時代戦国時代
生誕明応3年(1494年)?
死没弘治2年4月20日(1556年5月28日)
改名長井規秀→斎藤利政→道三(号)
別名諱:秀龍[注 1]
通称:新九郎、左近大夫
戒名円覚院殿一翁道三日抬大居士神儀
墓所常在寺(岐阜県岐阜市)、道三塚(岐阜県岐阜市)
官位山城守
幕府室町幕府美濃国守護代
主君長井長弘→土岐頼武→土岐頼純→土岐頼芸
氏族長井氏→斎藤氏
父母父:長井新左衛門尉(旧来の説では松波基宗とも)
母:不明
妻正室:小見の方
側室:深芳野ほか
子義龍、孫四郎、喜平次、日饒、日覚、利堯、利治、長井道利[1]、松波政綱[2]、娘(姉小路頼綱正室)、娘(土岐頼香室)、帰蝶(織田信長正室)、娘(土岐頼純室)、娘(斎藤利三正室)、娘(伊勢貞良正室)、娘(稲葉貞通正室)、娘(斎藤利之妻、斎藤元忠の母)、娘(畠山秋高正室)、
養子:正義
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斎藤 道三 / 斎藤 利政(さいとう どうさん / さいとう としまさ、明応3年〈1494年?〉- 弘治2年4月20日〈1556年5月28日〉)は、戦国時代の武将、美濃国の戦国大名、道三流斎藤氏初代当主。
名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。
現在では、坂口安吾『信長』や山岡荘八『織田信長』といった小説の影響により、美濃の蝮という綽名でも知られる(ただしこの異名は同時代の資料には一切記録されておらず、小説の創作である)。 ※以下は通説としてかつて知られていた道三の一代記を叙述し、新史料による道三の来歴は後述する。 明応3年(1494年)に山城国乙訓郡西岡で生まれたとされてきたが、生年については永正元年(1504年)とする説があり、生誕地についても諸説ある。『美濃国諸旧記』によると、先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。 その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。庄五郎は、西ヶ岡の商家・奈良屋に婿入りし、山崎屋庄五郎と名乗った[3]。庄五郎は、毎年のように、灯油の承認として美濃国を訪れた[3]。 大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭
生涯.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに美濃国諸旧記の原文があります。
前半生
その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼り[注 3]、美濃国の小守護代・長井長弘の家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣・西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。
勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現し、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。頼芸が兄・政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年(1527年)8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。
天文2年(1533年)、道三は、長井新九郎規秀という名で、確実な史料に現れる[4]。同年11月26日、長井景弘(藤左衛門尉)との連署で、長滝寺に出したもので、花押の形状から、道三と同一人物であることが確認される[4]。また、同年、長井長弘(越中守)は68歳で病死しており、長井惣領家は、長弘のあとを景弘が継いだことが分かる[4](この後、天文3年9月付の文書(『華厳寺文書』「藤原規秀禁制」)には道三単独の署名が現れ、それ以降、景弘の名がどの文献にも検出されないことから、この頃までに景弘が引退または死亡したと推定される)。
この頃、土岐頼純が反撃の機会を窺っていた(この頃、政頼は既に死去している可能性が高い)。天文4年(1535年)には頼芸とともに頼純と激突し、朝倉氏、六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がった。
天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。
※これらの所伝には、父・新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高い。大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。さらに、天文2年6月の文書で藤原(長井)規秀が初めて文書を出しており、それ以前に新左衛門から家督を継承している[5][6]。