斎藤道三
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

注釈^ 木下聡著『斎藤氏四代』によると、六角義秀より偏諱を受けて秀龍と称したというが、六角義秀は架空の人物であるため、秀龍と称した点も創作であると考えられる。
^ 『美濃国諸旧記』による記述だが、海音寺潮五郎の史伝『武将列伝』では、「道三は武芸ではなく智謀で出世した人であるから、この話は怪しい」として、疑問視している。
^ 『美濃国諸旧記』による。『武将感状記(砕玉話)』には町外れの草庵に住んでいた庄五郎を土岐(誰か不明)が推挙したというが、海音寺潮五郎の史伝『武将列伝』では、「日運という有力な後援者がいるのと矛盾している」として疑問視している。
^ ただし、近年では尾張国に追放されたのは次郎であって、頼芸はこの段階では美濃に留まって傀儡の守護としてその地位を保っていたとする異説もある。
^ 美濃平定後、稲葉山城の七曲百曲口に「主を斬り、婿を殺すは身の(美濃)おはり(尾張)。昔は長田、今は山城」という落書が記されたと言われる。これは源平合戦の頃、尾張の長田忠致が旧主の源義朝を謀殺したことと、道三の行状が匹敵するということを謡っている。
^ ただし、道三が鷺山城を隠居所としたという話は江戸時代の軍記物には記述があるが、信頼できる資料によって裏づけはできない。『信長公記』では親子4人で稲葉山城に居城していたという記述がある。
^ 道三と義龍との不和は、義龍が道三の実子ではなく土岐頼芸の子であったからだとする説がある。義龍は大永7年(1527年)の出生で、母の深芳野が土岐頼芸から道三に下げ渡されてから1年以内の出生のためである。
^ 土岐家自体を慕う旧臣は多く、道三は美濃平定後も常に不穏分子に悩まされ、国内統制に苦慮している。そのため、微罪の者を牛裂き釜茹での刑に処するなどの強権政治を行なっている。勝俣鎮夫は道三から義龍への家督譲渡の背景には、実はこうした残酷な道三の姿勢に不満を抱いた重臣達によって義龍を擁した政変が引き起こされて、道三はそれによって当主の座を追われたに過ぎないとする説を唱えている。
^ 『過去城州太守道三居士』と書かれている。
^ 「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)、現在は「春日家文書」として滋賀県草津市に寄贈[15]
^ 実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。
^ 『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。
^ 『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも。
^ 『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。
^ 横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないかとしている。

出典^寛政重修諸家譜』の井上氏の項。
^ 『寛政重修諸家譜』に収める松波家の系譜より。
^ a b 岐阜市 1980, p. 643.
^ a b c 岐阜市 1980, p. 647.
^ 小和田 1996.
^ 木下聡『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房、2020年)27頁
^ 太田牛一 著、中川太古 訳『現代語訳 信長公記』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2013年、77頁。 
^ a b c 宮本 1979.
^ 鈴木秀雄「忘れられている美濃戦国文化―斎藤道三の風雅―」(『郷土研究岐阜』76号、1997年)
^ 桑田 1973, p. 99.
^ a b 勝俣 1980.
^ 岐阜市 1980, pp. 644?645.
^ 岐阜市 1980, p. 645.
^ 『岐阜県史 史料編 古代中世四 県外古文書』1973年
^ 村井祐樹『六角定頼?武門の棟梁、天下を平定す?』ミネルヴァ書房、2019年。 
^ 岐阜市 1980, pp. 645?646.
^ 船戸政一・清水進「戦国の梟雄斎藤道三」1973年
^ 松田亮『斎藤道三文書之研究』1974年
^ 『岐阜県史史料編古代中世四県外古文書』1973年
^ 船戸政一・清水進「戦国の梟雄斎藤道三」1973年
^ 松田亮『斎藤道三文書之研究』1974年
^ 木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(ミネルヴァ書房、2020年)[要ページ番号]
^ a b系図纂要』斎藤氏の項より。
^ a b 『美濃国諸家系譜』所収『斎藤道三系図』より。

参考文献

岐阜市 編『岐阜市史』《通史編 原始・古代・中世》岐阜市、1980年3月31日。NDLJP:9570221。 (要登録)

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年2月)


桑田忠親『斉藤道三』新人物往来社、1973年。 

勝俣鎮夫「美濃斎藤氏の盛衰」『岐阜県史通史編 原始・古代・中世』1980年。 

福田栄次郎「斎藤道三」『国史大辞典』 6巻、吉川弘文館、1985年。 

小和田哲男「斎藤氏」『戦国大名370家出自事典』新人物往来社〈『別冊歴史読本』〉、1996年。 

木下聡 編『美濃斎藤氏』岩田書院、2014年。 

木下聡『斎藤氏四代』ミネルヴァ書房、2020年。 

論文

宮本義己「戦国大名斎藤氏と茶の湯―稲葉良通相伝の珠光流不住庵梅雪茶書―」『茶湯』15号、1979年。 

丸山幸太郎「永禄三年六角承禎条書について」『岐阜史学』72号、1980年。 

横山住雄「斎藤道三の二度出家説」『岐阜史学』77号、1983年。 

横山住雄「斎藤大納言と「今枝氏古文書等写」について」『岐阜史学』78号、1984年。 

横山住雄「土岐頼武の文書と美濃守護在任時期」『岐阜史学』80号、1986年。 

鈴木秀雄「忘れられている美濃戦国文化─斎藤道三の風雅─」『郷土研究岐阜』76号、1997年。 

土山公仁「道三文書の編年と関連史料に関する予察」『特別展 道三から信長へ』、岐阜市歴史博物館、2006年。 

奥田尚「版本『天正軍記』の斎藤道三と義龍の物語―物語の受容と変形の一例として―」『アジア学科年報』4号、追手門学院大学国際教養学部、2011年。 

関連項目

大山崎油座


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef