斎藤茂吉
[Wikipedia|▼Menu]
1902年(明治35年):第一高等学校(現:東京大学教養学部)第三部入学

1905年(明治38年):正岡子規遺稿第一篇『竹の里歌』を読み、歌の師を見出す。第一高等学校卒業。東京帝国大学医科大学に入学。

1906年(明治39年):伊藤左千夫の門下となる

1907年(明治40年):古泉千樫と相識る

1908年(明治41年):子規派の雑誌「馬酔木」廃刊、かわって創刊された「アララギ」に短歌を発表するようになる。同人の中村憲吉土屋文明と相識る

1909年(明治42年):森鴎外の観潮楼歌会に初めて出席、与謝野鉄幹北原白秋石川啄木上田敏佐佐木信綱などの歌人を知る。チフスに罹り卒業を一年延期。

1910年(明治43年):東京帝国大学医科大学(現:東大医学部)医学科卒業

1911年(明治44年):東大医科大学副手となり、精神病学を学ぶかたわら付属病院に勤務。7月より東京府巣鴨病院勤務。授業と診療の生活が始まる。(死に近き狂人を守るはかなさに己が身すらを愛(は)しとなげけり)この年から大正3年まで「アララギ」の編集を担当。島木赤彦を知る

1912年(明治45年/大正元年):学会で「麻痺性痴呆とワッセルマン反応」の研究報告。東大医科大学助手となる

1913年(大正2年):4月、連作「おひろ」を「アララギ」に発表。5月、生母いく死去。連作「死にたまふ母」を発表。7月、師・伊藤左千夫死去。(ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道暗し)10月処女歌集「赤光」刊行。歌壇のみならず文壇内外に大きな反響を巻き起こす。

1914年(大正3年):4月、斎藤紀一の長女、13歳年下の齋藤輝子(19歳)と結婚、斎藤家の婿養子となる

1917年(大正6年):1月、医科大学助手、付属病院、巣鴨病院をすべて辞職。官立長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)精神病科第2代教授(先輩で文学を通じて交流のあった石田昇のあとをうけたもの)

1919年(大正8年):歌論集「童馬漫語」刊行。長崎を訪れた芥川龍之介菊池寛と知り合う

1920年(大正9年):「短歌における写生の説」を「アララギ」に連載。6月喀血し県立長崎病院に入院、7月退院の後九州各地に転地療養。

9月27日:七級俸下賜[4]


1921年(大正10年):第二歌集「あらたま」刊行。医学論文「緊張患者のえるごぐらむニ就キテ」を完成。10月、精神病学研究のため欧州留学に出発。11月1日神戸を出航、香港シンガポールマラッカコロンボスエズから陸路カイロ往復、マルセイユパリを経て12月20日ベルリンに到着。

1922年(大正11年):ウィーン大学神経学研究所に入る。(ドウナウの流れの寒さ一めんに雪を浮べて流るるそのおと)11月論文「植物中枢神経ホルモンによる昂奮性について」完成。

1923年(大正12年):学位論文「麻痺性痴呆者の脳図」完成。(誰ひとり此処にゐざれば論文の頁を閉ぢて涙ぐみたり)イタリア旅行を経て7月、ミュンヘン大学に転学。エミール・クレペリンの臨床講義を聴きに行き握手を求めたが拒否される[3]。実父守谷伝衛門死去。11月、アドルフ・ヒトラーミュンヘン一揆に遭遇する。(行進の歌ごゑきこゆHitlerの演説すでに果てたるころか)

1924年(大正13年):5月「家兎の大脳皮質における壊死、軟化及組織化に就ての実験的研究」を完成。兎の脳を解剖し組織を顕微鏡で観察し写生するという地味で根気のいる作業の日々だった。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、青山脳病院全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)

1925年(大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 同病院の再建に奔走[5]

1926年(大正15年):3月、共に「アララギ」の編集に携わった島木赤彦死去。4月、現・世田谷区松原に青山脳病院復興。5月、再び「アララギ」の編集発行人となる。

1927年昭和2年):4月、養父紀一が引退し、青山脳病院院長の職を継ぐ[5]。5月、次男宗吉(北杜夫)誕生。7月芥川龍之介が茂吉にもらっていた睡眠薬を飲み自殺。大きな衝撃を受ける。

1928年(昭和3年):11月、養父紀一死去、家督は紀一の実子西洋が相続[6]。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなった。(おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥す)

1929年(昭和4年):11月、朝日新聞社機コメット102号機で東京、箱根等の上空を約2時間飛翔。(電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾)

1930年(昭和5年):10月、満鉄の招きで満州、北支方面を2ヶ月旅行。

1931年(昭和6年):「正岡子規」「明治大正和歌史」執筆。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef