斎藤妙椿
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 凡例斎藤 妙椿
岐阜市開善院(金寶山瑞龍寺内)所蔵
時代室町時代後期 - 戦国時代前期
生誕応永18年(1411年
死没文明12年2月21日1480年4月1日
別名持是院、善恵寺
戒名開善院殿権大僧都、大年妙手椿公居士
墓所瑞龍寺岐阜県岐阜市寺町)
官位従三位権大僧都
幕府室町幕府奉公衆
主君斎藤利藤土岐成頼
氏族美濃斎藤氏藤原氏
父母父:斎藤宗円
兄弟利永、妙椿、利任、周倫
北畠氏の娘
子養子:妙純甘露寺元長の娘(織田敏広室)
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斎藤 妙椿(さいとう みょうちん)は、室町時代から戦国時代にかけての武将斎藤宗円の子または弟[1]。甥・斎藤利藤の後見役を務めた。妻は伊勢北畠氏の出身で一女をもうけている。養女に甘露寺元長の娘(織田敏広室)。妙椿は法名(実名は不明)で、善恵寺[2]に持是院(じぜいん)という子院を構えたため、持是院妙椿と呼ばれた。斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の家系を持是院家という。

従来、美濃守護代とされてきたが実際には就任していない(後述)。
生涯

応永18年(1411年)、美濃守護代斎藤宗円の子として誕生。

幼少時から出家し善恵寺で修行した後、善恵寺に子院・持是院を構えた。宝徳2年(1450年)に妙覚寺から世尊院日範を招き常在寺を建立。長い間、僧として持是院で生活を送っていたが、長禄4年(1460年)に兄・斎藤利永が死去にともない、甥である新守護代・斎藤利藤を後見するため加納城へ移り、ここにも持仏堂と居庵を設けて持是院と称した。美濃守護・土岐成頼の被官ではあるが、同時に足利将軍家の直臣という立場に立とうとし、更に美濃周辺数か国の支配をも目論んだ[要出典]。後に室町幕府奉公衆となり、官位も土岐成頼の従五位下を超えて従三位大僧都に昇っている。

応仁の乱では成頼と共に山名宗全の西軍に属し、上洛中の成頼に代わり、東軍に属した富島氏・長江氏及び近江より来援に来た京極氏の軍勢と戦い、応仁2年(1468年)10月までにこれを駆逐し美濃国内を平定した。その一方で多くの荘園を押領して主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。

文明元年(1469年)夏には近江国内へ進攻して西軍の六角高頼を援護するため、敵対する東軍の京極政経と守護代多賀高忠軍を文明3年(1471年)2月、文明4年(1472年)9月の2度に渡って撃破する。

文明5年(1473年)10月には長野氏を援護するため伊勢へ出兵、東軍の梅戸城を落城させた。さらに文明6年(1474年)6月、数千騎を率いて越前国に赴き、甲斐氏朝倉氏の間を調定した[3]

この頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、妙椿の反対に遭い実現できなかったという。しかし斎藤妙椿が伊勢遠征を行なうと、その隙をついて、東軍の小笠原家長木曾家豊伊那谷木曽谷から東美濃に侵攻した。東美濃の遠山氏はこれを防げず、恵那郡大井城土岐郡の苅安城まで落城し、天文3年(1534年)に信濃の小笠原定基が撤退するまで東美濃の一部を占領された。

文明9年(1477年)、成頼は、足利義視を連れて美濃に帰国した[3]。義視は、延徳元年(1489年)まで11年にわたり茜部に住み、土岐氏の庇護を受けた[3]。この在国は妙椿の強い意向によるものだった(『心宗禅師語録』)[3]

文明10年(1478年)に婿の織田敏広に加勢して尾張に出兵するなど、その兵力は周辺諸国にも行使され、書状にて飛騨国姉小路氏三木氏の抗争を調定したり[要出典]、6代将軍足利義教の三十三回忌法要を美濃で営むなどをした。


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