斎藤勇_(イギリス文学者)
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1947年に東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、1948年から1954年まで東京女子大学学長を務める。この間、1949年市河三喜福原麟太郎大和資雄中野好夫豊田実たちと共に財団法人日本英文学会を設立[7]1950年から始まったチャタレイ裁判では検察側証人として出廷[8]

1953年国際基督教大学の開学に参加し、1954年から1964年まで国際基督教大学教授。1961年、日本学士院会員となり、1975年文化功労者に選ばれる。1979年イギリスの文化と文学を日本へ紹介した功績が評価されて、 エリザベス女王よりイギリス名誉騎士勲章(Honorary Knight Commander of the Order of the British Empire)を授けられる。1981年キリスト教功労者を受賞[9]。95歳という高齢になってもなお研究・著作の意欲は旺盛であったが、1982年7月、東京都新宿区の自宅書斎にて、当時27歳の孫に襲撃され、不慮の死を遂げた。同年、正三位に叙せられる。墓所は多磨霊園(16-1-3)。「斎藤勇東大名誉教授惨殺事件」も参照

日本における英語英米文学研究の生みの親であると同時に、牧師植村正久に師事した敬虔なクリスチャンとしても知られ、日本のキリスト教界でも重鎮として信望を集めた。
家族

父・斎藤勇蔵 -
福島県伊達郡にて農業[10]

妻・富美子(文子) - 河本重次郎の二女[10]

長男・斎藤光 - アメリカ文学者、東大名誉教授。岳父に高木八尺

長女・千鶴子 - 平井正穂の妻[10]

二女・敏子 - 神戸大学名誉教授・紅松康夫の妻

次男・斎藤眞 - 政治学者、東大名誉教授

三女・富士子 - 佐波正一の妻

日本における英文学研究の創始

斎藤が東大英文学科に入学した時には、夏目漱石上田敏も既に去り、日本人はひとりも教えていなかった。また、当時の東大英文学科の学風は、一つの主流が際立っていたわけではなかった。斎藤は多様な研究態度があることがむしろ望ましいと考え、夏目、上田両先達の跡を追うことはせず[11]、独自にイギリスの宗教詩研究の道に向かった。その後、日本の英文学研究の学問的レベルを高めることに努め、1913年からは東大の教壇に立って、日本人の英文学教員として実質的に夏目の後継者となった[12]

碩学、英文学界の泰斗と称された齋藤の学風をドイツ文学者の小塩節は、「まず第一に原典にあたって正確であること、次いで全体として見通しが大きくあるということ、第三に英文学の本質をキリスト教的愛と見さだめて、そこにまっしぐらにはいっている」[13]と評している。これらの特色は主著の多くに一貫して見られるが、とりわけ、広い視野に立って規範的な大作家に取り組み、関係批評書によって作品についての新知識を集積するよりも原典にあたって作品そのものを熟読することを重視していた[14]。このような研究方針のベースには、英米の書誌学(en:bibliography)・本文研究(en:textual studies)に対する高い見識があり、市河三喜が「英文学関連では東洋一」と称賛した蔵書[15]を精選する基準にもそれが反映していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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