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凡例斎藤 利三
「太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三」(落合芳幾作)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文3年(1534年)
死没天正10年6月17日(1582年7月6日)
別名通称:内蔵助
墓所真正極楽寺(京都府京都市)
妙心寺(京都府京都市)
主君松山新介→斎藤義龍→稲葉一鉄→明智光秀
氏族斎藤氏
父母父:斎藤伊豆守某(『寛永諸家系図伝』)[注釈 1]、母:蜷川親順
斎藤 利三(さいとう としみつ[注釈 3])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。春日局の父。 血統的には斎藤道三とは別の系譜で、本来の美濃斎藤氏の一族。ただし家系には諸説あって判然としない。 祖父は斎藤右兵衛尉某、父は斎藤伊豆守某(『寛永諸家系図伝』)[注釈 4]、母は蜷川親順(室町幕府の重臣蜷川氏)の娘である[1]。 親順の孫となる蜷川親長の妻は、利三の姉妹であり、系譜上の錯誤の可能性がある。徳川実紀には、「斎藤利三は明智光秀の妹の子」と書かれているが、後世に編纂されたもので、根拠は不明。斎藤利三と明智光秀の年齢差を考えると、妹ではなく姉だとする説もある。史料として光秀の妹と記されているのは、光秀の正室(妻木氏)の姉妹である。その母は、石谷光政に再嫁し、娘(長宗我部元親正室)をもうけた。 前室は斎藤道三の娘であったというが、史料的な裏付けはない。後室は稲葉家の娘で、斎藤利宗、斎藤三存、それに末娘の福(春日局)らを産んだ。福は稲葉重通(一鉄の子)の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母となり、権勢を誇った。 利三は、実兄の石谷頼辰や明智光秀と同様に幕府の奉公衆の出身であり、上京後に摂津国の松山新介に仕え京都白河の軍事をつとめる(『寛政重修諸家譜』)[1]。次いで斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家来になったとされるが、家来というよりは与力だった可能性が高いとする指摘もある[2]。後に軍功の割に厚遇されていないことへの不満と一鉄への諫言を斥けられたことから稲葉家を致仕し[3]、明智光秀から召し抱えられた。さらに光秀は那波直治
出自
生涯